人は主体性と独立性を失わないために、完全に自分自身に集中できる自律的な空間が必要である。
これをドイツ語で「シュピールラウム(Spielraum)」と呼ぶ。
ところが韓国語には、このシュピールラウムを正確に伝えられる単語がないという。
概念が存在しなければ、その概念に該当する現象も存在しない。
だからだろうか。
パーソナルスペースの重要性が多少軽視されている韓国文化の中では、とにかく日常でこれを侵害されることが多いように思う。
電車やバスで隣の人におかまいなしに大股開きで座ったり、まわりの人を押しのけて歩く行為を特に無礼と感じない人が多い。
こういう社会では、他人の心理的なスペースに対する境界がゆるいのも仕方がない。
もし、誰かが自分の家に遊びに来て、断りもなしに冷蔵庫の中をひっかきまわし、寝室のドアを平気でガバッと開けるなら、その瞬間、それは訪問ではなく侵犯になる。
日常生活で物理的な安全スペースを侵されたときの不快感。それは心に置きかえても同じ。
自分の考えを他人に強要することは、その精神世界、すなわち心のスペースを侵すようなもの。
それが、どんなに相手を心配して言うことであってもだ。
他人のスペースをむやみに侵してはならないように、人の心に立ち入る発言と行動にも気をつけなくてはいけない。
アドバイスはタイミングだ。
頼まれないうちは、いくら血となり肉となる人生の真理であっても、言わなくてよし!
【次回】精神衛生の為の2ワード。「適当」の技術とは? /ほっといて欲しいけど、ひとりはいや(3)
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日韓で多くの共感を呼んだ著者が語る、人間関係に疲労した人のためのデトックスエッセイ。疲れた心のお守りになる一冊です。