「病気の名前は、肺がんです」。医師からの突然の告知。しかも一番深刻なステージ4で、抗がん剤治療をしても1年生存率は約30%だった...。2016年9月、50歳でがんの告知を受けた刀根 健さん。残酷な現実を突きつけられても「絶対に生き残る」と決意し、あらゆる治療法を試して必死で生きようとする姿に...感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)より抜粋。過去の掲載で大きな反響があった連載の続編を、今回特別に再掲載します。
※本記事は刀根 健著の書籍『僕は、死なない。』から一部抜粋・編集しました。
※この記事はセンシティブな内容を含みます。ご了承の上、お読みください。
奇跡のような1年
翌朝、早朝に起床して、みんなで草原まで散歩に出かけた。
「時空の杜」の敷地を抜け、気持ちよく流れている小川の横を通り、森を抜けると、目の前に広々とした草原が広がった。
「ここは冬場はスキー場になってるんですよ」
中澤さんの言葉に周囲を見ると、スキーリフトが遠くに目に入った。
「夏場はモウちゃんの牧草地です。今の季節はいないですけど」
みんなで広々とした傾斜を上る。
まだまだ体調が万全でないのか、すぐに息が切れた。
やっぱり坂道はキツいな。
スキーリフトを越えると、その向こうにさらに雄大な山々が連なっていた。
あ~、なんて気持ちがいいんだろう~。
僕は広々とし、清浄な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
草原の朝露が、まるで宝石をちりばめたようにキラキラと輝いていた。
『時空の杜』に帰ると、ワークスペースにみんなが集まってきた。
いよいよ僕のがんからの生還を話す番だ。
参加者のみんなは、僕がどういうことで講師として呼ばれているのか、よく理解していない人がほとんどのように感じた。
断食がしたい人、河野さんのワークを体験したい人、それがメインの人たちだった。
僕は何も考えずに話し始めた。
「今から約2年前の9月1日、僕は肺がんのステージ4を宣告されました...」
みんなの目が、いっせいに変わった。
そんな人だったんだ、とその目が語っているように僕には感じた。
「ネットで調べると、肺がんのステージ4の1年生存率は30%、5年生存率は10%以下です。今、僕の身体にがんはほとんどありません」
「おお~」
誰ともない声が聞こえた。
僕の口から自然に、僕が体験した様々な出来事がこぼれだした。
最初の大学病院のドクターから言われたこと。
「肺がんは、がんの中でも難しいがんなんです」
「残念ながら、刀根さんには特定の遺伝子は見つかりませんでした」
「抗がん剤しか、やりようがありません」
「その抗がん剤は効く可能性は40%です。やってみないと分かりません」
「仮にそのお薬が効いたとしても、必ずがん細胞は耐性を持ち、効かなくなります」
「そうしたら、また別の抗がん剤に変えます。それが効く可能性も40%です。やってみないと分かりません...」
僕はあのとき、いのちの選択に迫られていた。
しかし、目の前に示されていた道は抗がん剤が効かなくなって死ぬか、抗がん剤の副作用で死ぬか、どっちかのように感じた。
大学病院から提案された治験も"人体実験"のように感じて断った。
まあ、本当は治験の担当医師が妻を泣かしたから、腹が立っただけなんだけれど。
僕はその大学病院の治療を断った。
今から考えると、ずいぶんと思い切ったことをしたものだ。
抗がん剤がキツくなって途中で止める人はいるけれど、最初っからやらないという人は珍しいらしい。
僕は大学病院の治療を断り、自分でがんを消すべく、徹底的に本やネットで調べまくった。
本は30冊以上読んだだろう。
そして本を書いた先生の所属するクリニックへもたくさん足を運び、直接話を聞きまくった。
サプリもたくさん買った。
生活習慣も変えた。
食事は妻が徹底的にやってくれた。
毎日の野菜ジュース、野菜を中心とした食事、肉類や乳製品を止め、グルテンフリーのメニューや食事など、本当に妻は頑張ってくれた。
妻にあの頃を聞くと、「もう、ただただ必死だった...」と言っていた。
それにもかかわらず、だんだんと悪くなっていく体調...。
僕の話に聞き入っている人たちの、息づかいが聞こえる。
喉が痛み出し、痰が出始め、それに血が混じり始めたのが12月頃。
胸の中がいつもチクチク、ズキズキと痛み出したのも、同じ頃。
年が明けて17年になると、首の横のリンパが腫れてきて、声が全く出なくなったこと。
1月末頃には、股関節と座骨が痛み出し、立っても痛い、座っても痛いと言う状態になってきたこと。
3月には100メートル歩くと息が切れ、4月に入ると階段も上れなくなってエスカレーターを探すようになったこと。
表面上は「僕は治ります」といつも強気でポジティブに意識を持っていっていたけれど、ふと気づくと「3ヶ月後に生きている自分」が想像できなかったこと。
ぐらぐら揺れ動く自分の心を見つめると、「自分は強い」と思っていたのは幻想で、本当の僕はとっても弱く、情けないやつだったということ。
雪崩のように、僕の口から当時のことが流れ出していた。
そして5月に入って、右目が見えなくなってきたこと。
同じ頃、自分の名前も書けなくなり、ひらがなも忘れてしまったこと。
そしてついに、東大病院のドクターに、「問題なのは脳転移です。かなり大きな腫瘍が考えられます。このままだと、最悪来週にでも、呼吸が止まる可能性があります」と、言われてしまったこと...。
聞いていたみんなの息が止まった気がした。
そう、そこで僕に起こったことは...。
絶望じゃなくて、解放だった。
暗くて狭い圧力釜から、広々とした何もない青空の下に解き放たれたように、僕は感じた。
それは、とてつもなく、気持ちが良かった。
それは、とてつもない、解放だった。
それは、僕の"自我・エゴ"の完全なるKO負けだった。
自分で治す。
自分が治す。
自分の考えで。
自分のやり方で。
自分が。
自分が。
自分で。
自分で。
自分。
自分。
自分。
自分。
そう、この"自分"が、目の前の状況に粉々に打ち砕かれた瞬間だった。
しかし、自分が打ち砕かれ、消え去っても...。
僕は...。
そこにいた。
いや、そこにいたのは"僕"ではなく、もしかすると"大いなる存在"と一体となった僕だったかもしれない。
そのとき"僕"はいなかった。
そこにはただひたすら、気持ちのいい、爽快な空間が広がっていた。
そのあと、まるで時間割が決まっていたかのように様々な出来事、人たちが僕の前にやってきた。
翌日、20年以上ぶりに会ったフジコさんは言った。
「刀根くん、これはね、自分で決めて、自分で起こしていることなのよ」
その言葉で、僕はこの出来事が僕の「魂の計画」であることを理解した。
その翌日、両親と会った。
そこで、僕が子供の頃から深い心の中にしまい込んで見ないようにしていた"悲しみ"を父に吐き出した。
その"悲しみ"は僕が心の中で勝手に育て、作り出したもので、その"悲しみ"がエネルギーの滞りとなって「肺」に溜まり、がんという病気を作ったのだと、僕は思っている。
その"悲しみ"を全て父にさらけ出し、吐き出した。
父は一言も反論せずに、全てを受け止めて言った。
「どれだけ...どれだけ健の身代わりになりたいと思ったことか...」
僕はみんなの前で話しながら、思わず涙を流してしまった。
あのときの父の姿を思い出すと、今でも涙が出てしまう。
僕は最初から愛されていた。
あの体験は、それを気づかせてくれた。
そして過去生が見える友人との出会い、河野さんとの出会い...。
全てが導かれるように僕の前に流れてきた。
僕はその流れに乗って流されているだけだった。
入院してからの、まるでリゾートの旅行に行っているような、気分のいい快適な日々...。
そして、希少な遺伝子が適合率100%で見つかり、適合する薬も目の前にやって来て...。
退院してから河野さんの案内で素晴らしい南伊勢を巡り、帰ってきCTを撮ってみたら、がんはほとんど消えていた...。
自分で話していて、本当に嘘みたいな本当の話だと思った。
これがまだ、たった1年前の出来事だった。
僕の話を聞いて、泣いている人もいた。
特に、父とのやりとりは、みんなそれぞれが自分の親との関係の中で、何か同じように癒やされていない部分があるように感じた。
僕のこの体験が、そういう部分の癒やしや気づきに少しでも役に立つのであれば、こんなに嬉しいことはない。
僕の話のあと、参加者の1人が話しかけてきた。
「すごく感動しました。本当にありがとうございました」
僕は思った。
僕もがんになって良かったというものだ。