「50歳での末期がん宣告」から奇跡の生還を遂げた、刀根健さん。その壮絶な体験がつづられた『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)の連載配信が大きな反響を呼んだため、その続編の配信が決定しました!末期がんから回復を果たす一方、治療で貯金を使い果たした刀根さんに、今度は「会社からの突然の退職勧告」などの厳しい試練が...。人生を巡る新たな「魂の物語」をお届けします。
流れに乗る
『時空の杜』から帰ってきてから、ふと感じた。
せっかく原稿を書いたんだから、やっぱり本になったら嬉しいな...。
それは書いた原稿に執着する"僕"ではなく、心の中から自然に"ふっ"と湧いてきたような感じだった。
直感...。
そう、直感に従ってみようで、さて、どうするか...?
出版社に出す「企画書」でも書いてみるか?
いやいや、それじゃ今までと同じ"DOING"でしょ。
そういうことは、したくないし、なんだかそれじゃ面白くない。
そうだ、フェイスブックに記事を書いてみよう。
僕はさっそくフェイスブックに記事をアップした。
『以前書いていた本が出版社の都合で没になりました。このまま埋もれさせてしまうのはもったいないと感じています。どなたか出版社関係の方をご存じの方はいらっしゃいませんか?』
たくさんのコメントの中、3人の人が「知人に出版社の人がいる」と、返事をくれた。
僕はさっそくその友人たちに連絡を取った。
1人目は大阪にいる、以前僕が心理学を教えた女性だった。
「知人に出版社の人がいます。ぜひお力になりたいです」
半年ほど前に研修の仕事で大阪に行ったとき、彼女に会って僕の生還体験を語っていたこともあり、とても熱心に返事をしてくれた。
2人目は、2008年に僕が『ストローク・ライフのすすめ』を出版したとき、そのきっかけを作ってくれた佐藤岬さんだった。
岬(みさき)さんは、当時赤坂でスペイン料理店『岬んち』を経営していて、スペイン大使館主催のオムレツコンクールで金賞を取ったこともある、腕利きシェフだった。
僕との出会いは同じボクシングジムで一緒に練習をしていたことが出会いだった。
岬さんのお父さんが著名な編集者で、岬さんの紹介で『ストローク・ライフのすすめ』は完成し、出版することが出来た。
しかしそのお父さんは数年前に僕と同じ肺がんで他界していた。
岬さんからは、こういう連絡が来た。
「以前お会いしていただいたこともある編集やっている方にお話をしたら、ぜひとも原稿を読ませていただきたい、と言っていまして、それと一緒にぜひお会いしたい、とも言っています」
「ありがとうございます!」
3人目は、これもボクシングジムからの縁だった。
僕がトレーナーになる前だから、もう15年以上前になる。
そのころ、僕はジムに行く時間が遅くて、毎回ほぼ夜9時過ぎにジムに入り、10時過ぎまで身体を動かしていた。
その時間帯はさすがに人も少なく、おおよそ一緒に練習するメンバーが決まっていた。
その中に小西さんがいた。
小西さんは仕事の都合で途中からジムに来れなくなったが、フェイスブックでのつながりは残っていた。
もう15年以上、会っていない。
その小西さんから、連絡が来た。
「こんにちは。同級生が出版社に務めています。ご紹介してもいいですか?」
「もちろんです!よろしくお願い致します」
どこが、どうつながっていくかは、さっぱり分からない。
でも、ひらめいたことを迷わずに実行すること。
直感に従って、何も考えずに動いてみること。
具体的に動けば、具体的な動きが返事となって返ってくる。
1週間もすると、それぞれの人たちからの次の返事が返ってきた。
大阪の女性からは「彼女はフリーの編集者なので、やっぱり、難しいみたいです...」
小西さんからも「彼の会社は大手の出版社なのですが、"持ち込み原稿"とかは、基本的に受けつけていないようなんです...お役に立てなくてすいません...」
とのことだった。
「そんな、謝っていただくことなんて、ありませんよ。逆に僕のために動いていてありがとうございます。感謝です」
僕は二人に、僕のために動いてくれたお礼を伝えた。
岬さんからは「12月6日に会いましょう」と編集者と会う日程の連絡が来た。
当日、御茶ノ水で待ち合わせた。
岬さんは以前お会いしたことがある編集者の方と一緒に来ていた。
僕は以前から趣味で下手くそながらも小説を書いていて、以前この編集の方に、それを読んでもらったことがあった。
そのとき「これは面白いです!」と言ってくれて、いくつかの出版社を回っていただいたことがあった。
結局出版には至らなかったけれど、いくつかの出版社ではいい評価をもらうことが出来たそうだった。
この方とお会いするのも10年ぶりくらいだった。
「刀根さん、さすがに痩せましたね...」
「ええ、まあ。一時は50キロまで体重が落ちましたから。今は5キロくらい戻って55キロくらいです」
「そうなんですか、ぼくなんてあれからずいぶんと太ってしまいましたよ」
その編集の方は優しげに笑った。
「いやあ~、刀根さん、本当に元気なって良かったです」
岬さんが感慨深げに言った。
岬さんは僕が入院していた東大病院にお見舞いに来てくれて、そのとき僕は放射線治療の後遺症で髪が抜けたので、頭をつるつるにそり上げてお坊さんみたいになっていた。
あれはあれで、知らないでいきなり見たら衝撃的だったろうな、と僕は思った。
今はもう髪は戻ってきていて、帽子をかぶらなくても良くなっていた、食事をしながら、僕の肺がんからの生還の話になった。
いきなりのステージ4宣告から大学病院でのやりとり、そして代替医療に邁進するものの、悪化する体調、そして脳転移からの緊急入院。
そのとき訪れた"サレンダー"の体験。
それからまるで時間割が決まっていたかのように向こうから勝手に予定が入ってきて、入院、治療・検査、遺伝子の発見からのアレセンサ。
退院後の南伊勢での静養と帰ってきてからのがんの消滅...。
二人とも興味深く話を聞いてくれた。
そして出版するために半年かけて書いていた原稿が没になったこと...。
「確かにすごい体験をされましたね」
「ええ、もしかすると、僕のこの体験が誰かの役に立つのでは...みたいに考えたのですが、いかがでしょう?」
「ええ、そうなるでしょうね。もしこれが出版できれば、勇気をもらえる人がいっぱいいるでしょうね。でも...」
「でも...?」
「実は私、あれからいくつか仕事が変わりまして、今は出版社関係に勤めていないんです」
「そうなんですか?」
「ええ、ですから、私が出来るのは、知り合いの出版社や編集者に刀根さんのことをご紹介することくらいしか出来ないんですよ」
「いえいえ、別にそういうことでもかまいません。縁はどこでどうつながってくるか、分からないですからね」
「すみません、お役に立てなくて...」
「そんな、謝らないでください。話を聞いていただいただけで、僕は嬉しいですから」
そのあと三人でいろいろと話したあと、お店を出た。
そのとき、僕の携帯がメッセンジャーのメールを受信していることに気づいた。
それは先日出版社に勤める同級生に紹介してくれた小西さんからだった。
同級生から、こんな連絡が来た、というのだ。
「先日はすみませんでした。ただ、あらためて刀根さんのブログなどを拝読してみました。とても興味深い方ですね。没になった原稿があるとのことですが、一度それを読ませていただくことは出来ますでしょうか」
おお!
メールは続いていた。
「もしこちらから刀根さんにご一報を差し上げた方がよろしければ、そう致します。小西さんからお話しを聞きました...とお伝えしながら」
小西さんのコメントも続いていた。
「再度、連絡が来ました。ソフトバンク系の出版社です。直接連絡を差し上げてもよろしいでしょうか?」
「おお~!ありがとうございます。もちろんご連絡いただいて結構です」
僕は自分のメールアドレスを小西さんに伝えた。
僕の興奮した様子を見ていた岬さんと編集の人が言った。
「良かったですね~。でも、今日、出版の話をしているときに、こんな連絡が来るなんて...すごいタイミングですね。きっとうまくいきますよ。僕たちが動くのは今の話の結果を待ってからにしましょう」
「ありがとうございます」
その翌日だった。
夜も11時を過ぎたとき、僕の携帯が鳴った。
誰かが電話をかけてきていた。
急いで見てみると、なんと寺山心一翁先生からだ。
僕はあわてて電話に出た。
「はい、刀根です。先生、どうかしましたか?」
「ああ、刀根さん、すみません。間違って刀根さんの番号を押してしまったようで...」
なんと、間違い電話だった。
「いえいえ、いいんです。僕は寺山先生のお声が聞けてとても嬉しいです」
寺山先生の声は、とっても暖かい太陽のようだった。
しばらく話をしていると寺山先生が言った。
「10日に講演会をするのですが、もし良ければいらっしゃいませんか?」
「ぜひ、行きます!」
ということで、10日に講演会に行くことになった。
講演会の会場で寺山先生にご挨拶をすると、寺山先生は言った。
「刀根さん、今日お時間を15分ほど差し上げますので、ぜひ、この会場に来ている方々に刀根さんの体験をお話ししてください」
「えっ、いいんですか?」
「もちろんです」
寺山先生はにっこりと笑った。
こうして僕は寺山先生の講演会の時間を少しいただいて、僕の体験を話した。
とくに伝えたかったことは、治療のやり方ではなく、気持ちの大事さだった。
不安や恐れを外に出すこと、がんを作ったネガティブなエネルギーを出すこと。
時間は少しオーバーしてしまったけれど、寺山先生もとっても喜んでくれた。
そしてそのあと、その会の主催をしているクリニックの萩原先生から「3月にがん生還者の体験談を企画しているので、是非そこでもお話しください」とのお話しをいただいた。
寺山先生の間違い電話から、講演の依頼につながるとは...。
こんなこと、あるんだ...僕は"流れ"というものを実感せざるを得なかった。
こうして一つひとつ、運命の糸に導かれるように、僕の目の前の扉が開いていった。
【次のエピソード】「売れなくてもいい...あ、すみません!」運命を感じた、ある編集者との出会い/続・僕は、死なない。(32)
【最初から読む】:「肺がんです。ステージ4の」50歳の僕への...あまりに生々しい「宣告」/僕は、死なない。(1)
50歳で突然「肺がん、ステージ4」を宣告された著者。1年生存率は約30%という状況から、ひたすらポジティブに、時にくじけそうになりながらも、もがき続ける姿をつづった実話。がんが教えてくれたこととして当時を振り返る第2部も必読です。