<この体験記を書いた人>
ペンネーム:みけ
性別:女性
年齢:52
プロフィール:両親と同じ敷地内に住んでいる52歳の自営業。
私と母方の祖父の話です。
私は母方の祖父母の孫の中で一番下の孫だったのと、小児ぜんそくがあって体が弱かったせいか、祖父母にとてもかわいがってもらいました。
祖父母宅は車で2時間ほどかかります。
私が高校生になるまで母は運転免許を持っていなかったので、祖父母に会うにはお正月と夏休みに電車を乗り継いで出かけるしかありません。
なかなか会えないのも理由でしょう、会えたときはとても喜んでくれました。
私たちもとても嬉しくて、あっという間に帰る日が来てしまうのが悲しくて駄々をこねたものです。
大人になってからも休みの日にはドライブがてらよく遊びに行きましたが、今から25年前、私が27歳のときにこんなことがありました。
その頃、82歳だった祖父はガンを患っていました。
その年の秋、容態が良くないとの知らせを受けて、両親と祖父母宅へ出かけました。
祖母へのあいさつもそこそこに、私が布団に近付くと、目を覚ました祖父はいつものように優しい笑顔を浮かべていました。
「おじいちゃん、大丈夫?」
ありきたりな言葉しか出てこない私に対して祖父はにこっと笑いました。
そして、私をさえぎるように「悪いときはいつまでも続かないよ。大丈夫だからな」と言いました。
ちょうどその頃、高校を卒業して希望の職に就いたのですが、職場の人間関係が原因でうつ病になり、退職していました。
祖父はどうやら母からそのことを聞いていたようです。
うなずく私に祖父は続けて「じいちゃんもな、シベリアでいつか帰れる日が来るって希望を捨てないで頑張ったんだぞ」と、終戦時にシベリアに抑留された経験を途切れそうな声で聞かせてくれました。
祖母と母から聞いた話だと、祖父はシベリアに6年間も拘留されていたそうです。
子どもの頃、何度か話を聞かせてもらおうとお願いしたことがあります。
でもそんなとき、祖父はいつも悲しそうな笑顔を浮かべるだけで、何も話してくれませんでした。
学校で戦争について教わるようになって、ようやく祖父にとって悲しく、辛い思い出だから話さなかったんだと気付き、それ以降は戦争の話をしないように気をつけてきました。
それなのに、私を励ますために、祖父が忘れたい思い出を話してくれたことに胸が締め付けられました。
「絶望だけに目を向けないで、信じて頑張れ。死んでもじいちゃんが応援してるから」
シベリア抑留生活に匹敵する苦しみを、今の時代の私が味わうことはありません。
少し話を聞いただけでゾッとする過酷な生活の中で、絶望に押しつぶされずに生き抜いた祖父を思えば、私もまだ頑張れる気がしました。
励ますつもりで訪れたのに自分が励まされてしまい、ありがたさと申し訳ない気持ちで涙が出ました。
その数日後に息を引き取った祖父。
あの言葉は遺言だと思って、祖父の笑顔と一緒に大切にしています。
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