<この体験記を書いた人>
ペンネーム:文月奈津
性別:女性
年齢:65
プロフィール:この前、花屋さんでジューンブライドという名に魅かれ、ピンクのアジサイを買いました。
私が24歳だった、1980年の冬のある日のことです。
兄から電話があり「パパがどうしても話したいことがあるんだって」と言うので、3人でランチをすることになりました。
当時、母(49歳)は、末期のがんで入院中で、父とは一緒に暮らしていませんでした。
その2年ほど前から体調を崩した母は、いくつもの病院をまわっても病名がわからず、どんどんやせていきました。
そんな母を大切にせず、何人目かの愛人を作って外泊を繰り返していた父。
家族会議を開いて、父に愛人と別れるように話しましたが「大切な人なので別れることはできない」と言われて激怒した私は、23歳の誕生日だった夏のある日に、母の希望もあり2人で家を出ました。
アパート暮らしとはいえ、娘と2人の気楽さからか幾分元気になった母でしたが、12月になって胃の痛みを訴えるようになりました。
病院での診断は末期がん。
年末に手術をしましたが、がんは胃の裏側にあるため取り除くことができず、食事ができるようにバイパスをつけただけでした。
母はあと半年の余命宣告を受けました。
のちに医師から「あなたが『あとどのくらいなのですか』と聞くから半年と答えたけれど、もってひと月と思っていました」と言われました。
周囲の方の励ましもあったおかげか、翌年の1年間、母は小康状態を保つことができ、夏には一緒に箱根に旅行しました。
冒頭の兄からの電話で、父と3人でランチをしたのは翌年の1980年の1月、母の病状が進み、再入院した頃のことでした。
そこで父はいきなり「葬式はどうするんだ。どうせ俺が全部出すんだろうから、家に帰って来いよ」と言い出しました。
なんの話かと思っていたら、母の葬式のことだったとは...あまりに無神経な父の言葉に驚きました。
「ママは今もがんと闘っている。生きているんだ。今そんな話をする必要があるの? 世間体を考えて葬式のために帰って来いというのね。例の愛人はどうするのよ」
「だますのさ。どうせ長い話ではないだろうし」
余命わずかな母に「愛人とは別れた」とでも言うつもりなのか? ふと気が付くと、私のナイフを持つ手が、お皿の上で怒りのために震えていました。
カタカタと鳴る音を止めようとしても、どうしても止めることができません。
「よくそんなことが言えるわね。お金のことや愛人のことでさんざんママを苦しめてきたくせに。この期に及んでまだそんなことを言うわけ?」
怒りで動揺しているのを父に悟られたくないと思いながら、私は言いました。
「葬式代は全部私が出すよ。祭壇なんかなくたっていい。母を本当に大切に思ってくれる人たちが来てくれればいいのだから」
のちに兄からは「あんな話だとは思ってなかったよ。ごめん」と謝られました。
それから、3カ月後の春、母は亡くなりました。
最後まで優しかった母を看取ったのは私。
母の心臓が止まって、ナースコールをしたときに入ってきたのは兄でした。
結局、父は臨終には立ち会えませんでした。
偶然だ、その程度の差がどうしたと思う人もいるでしょう。
でも私は、母への思いの差が「別れ方」に出たのだと思っています。
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