ハロー!プロジェクト楽曲やテレビアニメ主題歌の作詞家として知られる児玉雨子氏。2023年、芥川龍之介賞候補作にノミネートされるなど小説家としても注目される彼女が、独自の視点で江戸文芸の世界を大胆に読み解く書籍が『江戸POP道中文字栗毛』です。編集を繰り返す松尾芭蕉の俳諧、流行語連発の『金々先生栄花夢』、江戸時代の銭湯スタイルを実況する『諢話浮世風呂』など、様々な文学作品から当時の流行りや生活を紹介、現代の感覚との共通点を指摘していきます。触れる機会が少なく、近寄りがたいと思ってしまいがちな江戸の近世文学を、現代ポップスやカルチャーにもなぞらえているので、世界眼を想像しやすく、気楽に楽しむことができます。『江戸POP道中文字栗毛』から、江戸時代の文芸や文化を垣間見てみませんか?
※本記事は児玉 雨子 著の書籍『江戸POP道中文字栗毛』(集英社)から一部抜粋・編集しました。
天下一言語遊戯会
──徘諧史とポピュラー音楽の意外な共通点②
芭蕉による引き算のテクニック
この俳諧の「文芸」的価値を考えるにあたって、前章で紹介した芭蕉の強迫症的なまでのリテイクがヒントのひとつになるかもしれない。実は芭蕉はこの談林派出身で、当時は桃青というペンネームで活動していた。「わび・さび」という美的感覚を表しているというかの有名な「古池や」の句だが、その初案は軽口の談林風だという指摘が多い。初案と今日残る句を並べて紹介する。
「古池や蛙飛ンだる水の音」(「庵桜」)
「古池や蛙飛こむ水の音」(「蛙合」「春の日」)
明らかに変わった点は「飛ンだる」から「飛こむ」だ。この「飛ンだる」の軽さが談林俳諧らしい。私は先に完成形を知っていたので牽強付会かもしれないけれど、前者は蛙が飛び込む「ポチャン」という音よりも「飛ンだる」というリズミカルな言葉のほうに意識が向いてしまう。芭蕉はこの談林風のテクニックを駆使した「飛ンだる」を引き算して、より「ポチャン」という音に意識が集まるようにシンプルな構成にしたことで、この句が評価されて自身の作風を確立した。
晩年の芭蕉は「高悟帰俗(こうごきぞく)」を説いた。私はこの言葉をきちんと理解できている自信がないのだが......つまり「高く悟り俗に帰るのが俳諧である」という禅思想に近いものだ。この「俗な世界のなかに雅がある」という不思議な風味を近世文学研究の領域では「俗中雅(ぞくちゅうが)」といった表現をするそうだが、ただ和歌のパロディや言語遊戯に興じるのではなく、俗中雅のような新たな感覚を生んだから「文芸」としての価値を見出されたのだろう。そしてこの新たな感覚こそ、芭蕉のエポックメイキングなところだと私は感じる。
ところで、この「雅」すなわち伝統と「俗」すなわち新興の対立と融和は、現代音楽に置き換えてもそんなに乱暴なことではないと私は思っている。J-POPというか、ジャズ、ロック、ポップ、EDM、ヒップホップなどを含むポピュラー音楽は、伝統的なクラシック音楽に対するアンチテーゼといってもよいだろう。そのふたつでは音楽理論や用語がやや違う。和声と和音の考え方はもちろん、ポピュラー音楽にはクラシックと異なり「禁則」と呼ばれるものがない(厳密には「好ましくない」という扱いなので、あるっちゃあるし、ないっちゃない、といった感じ)。それはポピュラー音楽がクラシックのルールを破り、裾野を広げるように発展してきたからだ。
また反対に、何でもありであるポピュラー音楽は、対位法などのクラシック的手法を取り入れることもできる。これも俳諧との親和性が高い。芭蕉の弟子・各務支考による聞き書き『続五論』に「俳諧は高下の情をもらす事なし」とある。俳諧の範囲はどんな身分、どんな文化的階層があろうと関係ない、すべてが俳諧になりうるということだ。それは俳諧師の身分を問わない姿勢にもつながる。
職業作曲家にはクラシック畑からやってきたひともいれば、バンドマン、DTMer(*1)もいる。生まれや育ちは関係ない、というより、どんな出自も個性であり武器となるような、天下一武道会であることも俳諧と共通している。PCやDTMの際に使うソフトやアプリが普及し(*2)、YouTubeにポピュラー音楽理論の解説動画が増えて、デジタルネイティヴ世代がぞくぞくと成人してゆく今日このごろ、特にその傾向が強くなっていると私は感じている。
俳諧の歴史を知ると前向きになれる
そして芭蕉が起こした変化と、現代ポピュラー音楽の状況とが似ているな~と私が感じる点はもうひとつある。一度の句会で巻いた句の数だ。貞門・談林時代では、百句つらねる「百韻」形式が基本だったのだが、芭蕉は三十六句(三十六歌仙にちなみ、この形式を「歌仙」と呼ぶ)まで短くなった。
その理由のひとつに、句のつなげ(付け)方や俳諧性が、芭蕉の登場でそれはもうめちゃくちゃに洗練されたことがある。余韻や行間を重んじるようになり、ただペダンティックに古典を引用したり、ダジャレに興じたりするのでは敵わなくなったのだ。ほかにも、俳諧が武士や僧侶などの有閑インテリ層だけでなく、いそがしく働く商人階級にも広がり、百韻も巻く時間がなくなったことも影響しているだろう。
尺が短くなる傾向は今現在のポップスにも見受けられる。二十年前は五分を超える楽曲はそんなに珍しいものではなかったが、最近はチャート上位にそんな長い曲が来るのはレアケースじゃないかと個人的には感じる。この原因は色々と推測されている。
たとえばサブスクやストリーミングで曲を聴くのが若年層の主流になり、音楽の「数字」は円盤売上ではなく再生回数を指すようになったこと。一回聴いただけで満足されたら「数字」にならないので、ちょっと物足りなく感じさせるように、短くなったり楽曲に終止感を持たせなかったりしている。
またOPやED映像のために一コーラスが89秒で制作されるテレビアニメ主題歌も、フルコーラス作ると単純計算で二コーラスで178秒(約3分)、間奏やアウトロなどが入って長くても4分以内に収まりやすい。
......などと邪推されやすい(そういう側面も実際あると思う)けれど、何もそんな商業的な理由だけで、このような大きな変化が生まれるわけじゃないはずだ。これだけ情報や言葉が溢れている時代だからこそ、すべてを説明しきらない、シャープな余情が求められているのかもしれない。
こうして俳諧の歴史と照らし合わせてみると、まだまだ音楽業界に様々な変化が期待できるかもしれない。芭蕉の少し後には上島鬼貫が活躍し、時代が下れば与謝蕪村や小林一茶も有名だ。もちろんまったく同じ流れを繰り返すことはないだろうけれど、歴史を振り返るたびに、不思議と前向きな気分になる。
【注釈】
(*1)PCを使って楽曲制作をすることをDTM(デスクトップミュージック)と呼ぶ。DTMerはそれをするひとたちの通称。
(*2)iPhone等をはじめとしたApple社製品には「GarageBand」という簡易的な音楽制作ソフトが標準搭載されている。また、より自由度の高い「Logic Pro」というソフトも、iMacやMacBookシリーズ購入時に他社製品よりも比較的安価で同時購入することができ、時代が下るほど音楽制作を始めるハードルが下がっている。