【第1回】「こっちに来ないで」近づくサイレンの音。真夜中に目を覚ますと、焦げ臭いにおいが...
そこは、疲れた心をほぐして明日への元気をくれる大切な場所ーー。火事で引っ越しを余儀なくされた、チェーン系レストランの店長・みもざが訪れたのは、住宅街の路地裏にある小さなビストロ。この店の常連になってから、彼女の心はじんわり温まり...。『キッチン常夜灯』(KADOKAWA)は、美味しい料理とともに、明日への活力をくれる心温まる物語です。牛ホホ肉の赤ワイン煮、白ワインと楽しむシャルキュトリー、ジャガイモのグラタン...寡黙なシェフが作る料理と物語をお楽しみください。
※本記事は長月 天音著の書籍『キッチン常夜灯』(KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました。
それから三日後のことだ。その日は私にとって週に一度の休日だった。
私はたいてい火曜日に休みを取るようにしている。本当は週に二度休まなくてはいけないけれど、欠けたバイトの穴を埋めるのも店長の大事な仕事である。しかし、それではいっこうに休めないので、週に一日だけはバイトをかき集めて手堅いシフトを組むようにしている。
休日になると、ストンと電源が落ちたように体が動かなくなる。不眠気味の体のせいだ。
眠れない時間の辛さと、いつまでも消えない疲労感は応えるが、病院に通うほどでもないと自分を納得させて数年間をやり過ごしてきた。
まったく眠れないというわけではない。寝つきが悪いだけだ。だから大丈夫だと、いつの間にか曳舟のマンションには、バスソルトと癒し系のグッズが増えていった。
昼過ぎに起き出した私は、買いそびれていた日用品の買い出しがてら蕎麦屋で鴨南蛮をすすり、夕方には帰宅して、帰ってきた金田さんに先日訪れた「キッチン常夜灯」のことを報告した。
「よかった。今もちゃんとあったんだね。あの後、本当は幻でも見たんじゃないかって急に心配になっちゃってさ」
「大丈夫、ちゃんとありましたよ。私は牛ホホ肉の赤ワイン煮を食べました」
「ははは。夜中にずいぶんガッツリ食べたねぇ」
そんな会話を交わし、金田さんが誘ってくれた夕食を「さっきお蕎麦を食べました」と遠慮して、ゆっくりとお風呂に浸かった。ラベンダーの香りに包まれ、今夜こそたっぷり眠るぞ、と、いつもはまだ働いている時間にベッドにもぐり込んだ。
静かだった。
目を閉じているのに、目の奥に夜の青い闇が入り込んでくるように、くっきり意識が冴えている。眠ろうと思えば思うほど目が冴えて、いつの間にか横になっているのも苦痛になっていた。いつもならそのうちに朝がやってくる。しかし、ずいぶん早くベッドに入った今夜の私にとって、朝はまだまだ果てしなく遠かった。
急に不安になってきた。
いつまでこんな生活が続くのだろう。
このストレスは私が店長である限り、ずっと付きまとうのだろうか。眠れないまま?
不意にサイレンの音が聞こえてきた。このあたりには大きな病院が多く、絶えずどこかで聞こえるサイレンの音が、真夜中の私の不安をさらに搔き立てる。
私はたまらずに飛び起きた。
迷いはなかった。ルームウェアを脱ぎ捨て、セーターを被り、ジーンズに足を通す。階段だけは足を忍ばせて下り、外に飛び出した。明るいところへ、温かい場所に行きたくてたまらなかったのだ。
二度目の「キッチン常夜灯」。ぼんやりとした看板に導かれるように、ステンドグラス越しの明かりが夜にこぼれる路地を歩いて入口にたどり着いた。
そっと扉を開くとドアベルが鳴り、堤さんがひょっこり顔をのぞかせた。
「あらっ、いらっしゃい。どうぞ、どうぞ」
満面の笑みが大歓迎だということを示している。彼女を見た途端、ほっと肩の力が抜けた。
頰に触れる温かな空気と、美味しそうな香り。そして優しく店内を包み込む、ほどよい照明。カウンターの中のシェフが、顔を上げて「いらっしゃい」と言ってくれた時には、涙が出そうになった。
私の他に客は一人。以前スープらしきものを食べていた女性が今夜もカウンターの奥にひっそりと座っていた。平日の夜とはいえ、今夜も客が少ない。落ち着けるのは嬉しいが、同業者として経営は大丈夫だろうかと心配にもなる。
「今日はいかがいたします?」
堤さんがにこにこしながらメニューを差し出した。
どうしよう。次は何を食べようと考えていたはずなのに、とっさに頭に浮かばない。
「ワイン、お願いします。一杯だけでいいんです」
それから壁に掲げられた黒板を眺めた。
「シャルキュトリー盛り合わせがいいです」
ゆっくりとここで過ごしたいと思ってメニューを選ぶ。
「ワインは白と赤、どちらがお好みですか」
「どちらが合いますか」
そう詳しいわけではない。洋食店の店長といっても所詮はファミレスである。客から入るオーダーもアルコールならざっくりとワインかビールかというだけで、客もワインの質を求めているわけではない。「ファミリーグリル・シリウス」はそういう店だ。
ただ、今夜はどうしてもアルコールが欲しかった。そしてソムリエの堤さんにワインを選んでほしかった。
「合うかと言われれば、私の好みになってしまいますけど、それでもよろしいですか」
「はい、お任せします」
と言いながら、ついドリンクメニューを確認してしまった。ボトルワインは値段のばらつきが大きいが、グラスで注文できるものは限られているのか、千円ちょっとの値段だったので安心した。
「アルザスの白にしました」
グラスに注がれる淡く黄色がかったワインを眺めるだけで、特別な空間にいるような錯覚に陥った。さっきまで暗い部屋で必死に目を閉じていたというのに。
それからすぐにシェフが大きな皿を運んできた。
「お待たせいたしました。上から時計回りに、ジャンボンブラン、ピスタチオ入りの豚モモ肉のソーセージ、スモークした鴨のハム、ココットの中は豚肉のリエットです。バゲットと一緒にどうぞ」
薄紅色のバラの花を盛り合わせたような皿を見たとたん、先ほどまでの気持ちがうそのように高揚してきた。
それにこれなら、ゆっくりとここで時間を過ごすことができそうだ。
小さい頃からおやつに魚肉ソーセージを与えられていた私にとって、大人になって覚えた肉の加工品、シャルキュトリーは、子供の頃の常識を覆す贅沢なおつまみだ。大皿に盛り合わされたこれらを独り占めできるのも大人なればこそ。
シェフはじっと私を見つめていた。
私は気づかぬふりで、「いただきます」とフォークに手を伸ばした。
華やかな香りに反してキリッとした飲み口のワインと、ハムの塩気がよく合った。
弾力のある嚙みごたえは、子供の頃に食べたソーセージと当然ながらまったく違う。嚙みしめるたびに旨みが広がり、それをワインで洗い流すように飲み込むと、さらに違った美味しさに脳が痺れた。さっきまでの言いようのない不安を押しやるように、私はワインを飲み、シャルキュトリーを嚙みしめた。
「お客様、ナイスチョイスです。ウチのシェフのシャルキュトリー類、なかなか人気なんですよ。さぁさ、リエットも食べてみて下さい」