船の上で男女が持つ盃の中身とは。「残酷な運命の分かれ道」を描く名画の謎

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『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』 (著:井上 響、 監修:秋山 聰 /KADOKAWA)第5回【全5回】

「なんだか良かった」だけで終わってしまう美術鑑賞に、物足りなさを感じている方へ。書籍『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)は、「絵画をもっと深く味わってみたい」と思う皆さんにおすすめしたい一冊です。「オフィーリアは何を描いているの?」「モナ・リザの魅力って?」...そんな疑問も、この本を読めば氷解します。東京大学で美術史を学んだ著者が、絵画鑑賞の「コツ」を丁寧に解説。物語や歴史の知識をひも解くことで、名画がより一層、鮮やかに見えてきます。この本を手に、美術鑑賞をさらに有意義な体験に変えてみませんか。

※本記事は井上 響 (著)、 秋山 聰 (監修)による書籍『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』から一部抜粋・編集しました。

船の上で飲み物を持ち合う男女

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
《トリスタンとイゾルデ》


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ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス《トリスタンとイゾルデ》 1916年、個人蔵

愛する人と離れるくらいなら、死を選ぶ。これはそんな切ない物語を描いた絵画です。

一人の騎士と姫が船に乗っています。二人は一つの盃を一緒に持っています。これは毒杯です。今まさに毒を飲もうとしている二人、トリスタンとイゾルデ。コーンウォールの騎士と、アイルランドの姫。

彼らは愛し合う二人でした。だけれども、彼らは今まさに死のうとしています。それは彼ら
が結ばれることを許されないからでした。

トリスタンはイゾルデを愛していました。というのも、過去、旅をしている最中に彼女に命
を助けられたことがあったのです。その時、彼は決意していたのです。彼女を守る、彼女の騎士になろうと。 

けれども、運命はそれを許しませんでした。旅が終わり、帰還したトリスタンは、自らが仕
えるコーンウォールの王に、美しいアイルランドの姫の話をします。すると王は、彼女を自分の妃にすると決めてしまったのです。そして王はトリスタンに命じました。アイルランドの姫を連れてくるようにと。そのためにトリスタンをアイルランドの姫の元に、イゾルデの元に遣わしたのです。

今、船に乗って二人ともコーンウォールへと向かうところです。騎士として主君を裏切ることはできません。そして騎士の覚悟を、誇りを踏みにじることなど姫にはできない。

だから彼らは、毒を飲み込むのです。現世で結ばれることは、二人の矜持が許しません。な
ればこそ、共にこの現世から去ることを彼らは選んだのでした。

船の上で男女が持つ盃の中身とは。「残酷な運命の分かれ道」を描く名画の謎 絵画の観方_入稿_全体-121-1.jpg船の上で男女が持つ盃の中身とは。「残酷な運命の分かれ道」を描く名画の謎 絵画の観方_入稿_全体-121-2.jpg

そっと、最後にお互いを見つめ合う二人。

こちらに見えるように、陸地はもう近く二人に時間は残されていません。

このままでは魂が引き裂かれる運命を迎えてしまう。だから次の瞬間、彼らは毒をその肉体に注ぎ込むのでした。

しかし、なんと運命の意地の悪いことか。

トリスタンとイゾルデは死にませんでした。彼らは間違えて、毒ではなく、魔法の愛の媚薬を飲んでしまうのです。イゾルデがコーンウォールの王と使うようにと言われていた、飲んだ者が愛しあわずにはいられない魔法の薬を。そうして、愛し合う二人は生きたまま引き
裂かれます。抑えきれぬ想いをその身に抱いたまま、イゾルデはコーンウォールの王と結ばれてしまうのです。彼らは二つの選択肢に苦しみながら生きることになります。騎士としての誇りを、淑女としての嗜みを守るのか。それとも愛する人と結ばれる幸せを、地獄への道を取るのか。

結局、彼らは結ばれることを、破滅の道を選びます。そしてその身に待ち受けるのは永遠の
別れなのでした。

これはそんな運命を決める、毒杯を描いた絵画なのです。

この主題は19世紀に非常に人気を博しました。『アーサー王物語』などでも語られていたり
と、古くから知られていた物語ですが、ワーグナーによってオペラ化され、19世紀ごろから芸術作品の主題として非常に多く扱われました。

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ジョン・ダンカン《トリスタンとイゾルデ》 1912年、シティアートセンター、エディンバラ(スコットランド)

ダンカンの作品を観てみましょう。ウォーターハウスの作品とは、表情が異なります。

ダンカンの作品では、トリスタンが顎をあげ、盃を持つイゾルデの手に自分の手を添えてい
ます。「さあ飲もう」とでも言わんばかりの表情です。美しいイゾルデはそれを黙って受け止
め覚悟を決めているようです。しかし、ウォーターハウスの作品では、イゾルデが顎をあげ、盃の下を持つのはトリスタンです。イゾルデが、「さあ一緒に死にましょう」と伝え、そしてトリスタンはこれが本当にお互いのためになるのか、迷っているように暗い表情で描か
れています。彼は決して死に怯えているわけではないでしょうが、これが最善なのか、王
に仕える騎士として正しい決断なのか、深く考えているように見えます。

愛し合う二人の決意と、残酷な運命の分かれ道を描いた瞬間の絵画でした。


主題
トリスタンとイゾルデ

主題を見分けるポイント
器を持つ二人の男女

鑑賞のポイント
二人の表情


 
※本記事は井上 響 (著)、 秋山 聰 (監修)による書籍『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』から一部抜粋・編集しました。
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