たとえ安らかなるものであったとしても...。死は、生物にとって根源的な恐れの対象。誰も死から逃れることはできません。死の恐れに対して、私たちはどう向き合えばよいのでしょうか?
東京・谷中の禅寺「全生庵(ぜんしょうあん)」住職の平井正修さんに伺いました。
必要以上に「死」を恐れていませんか?
−−どうにもならない「死」はお任せしてしまう
怖いものといえば、人それぞれだと思いますが、万人に共通するのは死に対する恐れではないでしょうか。なんといっても、死の世界には誰も行ったことがない。地獄だ、極楽だ、という言い方はされていても、その実体はまったく未知です。何も見えない闇が恐れをもたらすように、その"分からなさ"が、恐れの源と言っていいでしょう。
また、誰も死からは逃れることはできません。万人に公平に訪れる唯一のものが死です。「いつかは死ななければならない」という不可避性も、恐れを増幅させているのかもしれません。
さらに、生きたいという(意)欲もあります。いくら欲があっても、いつか、必ず、それは断ち切られる。しかも、そのときがいつやってくるのか、これまた誰にも分からない。
分からない、避けられない、予測できない、という人の手が及ばないことが三つそろったのが死なのです。これはどうにもなりません。仏教では、どうにもならないこと、考えても仕方がないことは考えない、というのが基本的なスタンスです。そう、死については、仏様にお任せするよりほかはないし、そうしてしまえばいのです。
余命を告げられて、従容として死を受け入れるケースはあります。私の寺に坐禅に来ていた、日本でも有数の企業の経営者ですが、突然、「余命2カ月」の末期ガン宣告を受けたのです。
その後、その人はがん治療を受けながら、墓所のことなど必要な人生のしまい支度をし、半年後に他界しました。少なくとも、私たちの前では、その振る舞いにがん宣告前と変わるところはありませんでした。これもお任せした姿ではなかったでしょうか。
最後に良寛さんの言葉を紹介しておきましょう。
「死ぬる時節には死ぬがよく候」
任せきったところに恐れはありません。
平井 正修(ひらい・しょうしゅう)さん
臨済宗国泰寺派全生庵住職。日本大学客員 教授。2003 年より、中曽根康弘元首相や 安倍晋三首相などが参禅する全生庵の第七 世住職に就任。全生庵にて坐禅会、写経会 を開催。最新の著書に『三つの毒を捨てなさい』(KADOKAWA刊)。