「病気の名前は、肺がんです」。医師からの突然の告知。しかも一番深刻なステージ4で、抗がん剤治療をしても1年生存率は約30%だった...。2016年9月、50歳でがんの告知を受けた刀根 健さん。残酷な現実を突きつけられても「絶対に生き残る」と決意し、あらゆる治療法を試して必死で生きようとする姿に...感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)より抜粋。過去の掲載で大きな反響があった連載の続編を、今回特別に再掲載します。
※本記事は刀根 健著の書籍『僕は、死なない。』から一部抜粋・編集しました。
※この記事はセンシティブな内容を含みます。ご了承の上、お読みください。
【前回】「がん」から回復したものの...続く「人生のピンチ」。僕が頼った先は
生きるって、なんて素晴らしいんだろう
12月31日。
怒涛のようだった2017年が終わっていく。
1年前の僕はどんどん具合が悪くなる中、ポジティブを保とうと必死だった。
声が枯れてほとんどでなくなったのも、1年前の年末あたりだった。
胸の中はずきずき、チクチクと痛み出して、痰に血が混じり始めたのもこのころだった。
あれから1年...僕はこうして生きている。
なんて素晴らしいんだろう。
朝起きるとき。
ああ、今日もこうして無事に目が覚めることが出来た。
ありがとうございます。
夜寝るとき。
今日もこうして無事、いのちを失うことなく1日という時間を過ごすことが出来ました。
本当にありがとうございます。
誰へともなく、感謝の言葉が湧いて来るのだった。
しかし...本当に濃い1年だった。
肺がんで死にそうになり、生還したかと思ったら、会社から戦力外通告。
人生を変える3つの出来事、という話がある。
その3つとは、大病、倒産、投獄。
僕は倒産じゃないけれど、事実上のクビ宣告だから同じようなものだろう。
1年の間に3つのうちの大病と倒産の2つを経験したというわけだ。
最後の投獄だけは勘弁してほしいよ、魂くん。
年末の晩は、我が家で恒例になっていたボクシングの世界タイトルマッチを観た。
トレーナとして試合で対戦したり、一緒に練習したことのある選手やトレーナーたちが、テレビ画面の中で活躍していた。
僕も、あの世界の端っこにいたんだなぁ。
彼らが、まるで別世界の人たちに見えた。
そして朝が来た。
2018年1月1日。
「あけましておめでとうございます」
家族で元旦の挨拶をする。
僕と妻、長男、次男の4人家族。
家族みんなのサポートがなかったら、僕はここにいなかっただろう。
翌日の1月2日。
僕たちは帰省した。
「本当はね、今年の冬は越えられないと思っていたの」
母はそう言って、また目頭を押さえた。
すっかり涙もろくなったみたいだった。
「ほら見て、髪の毛が結構生えてきたよ」
僕は帽子をとってフワフワと生えてきた髪の毛を見せた。
「ほんとね。でもなんか一瞬、カツラかと思ったわ」
母が笑った。
「声も随分出るようになったんだ」
「本当に良かったね」
姉や甥っ子たちもみんな喜んでくれた。
「最新医療はすごい。東大病院は素晴らしい」
父も相変わらず現代医療をほめちぎっていた。
僕は喜ぶ父が微笑ましかった。
もう父が何を言っても昔みたいに腹が立つことはなかった。
父の本当の気持ちが分かっていたから。
その後、みんなでお墓参りに行った。
晴れ渡った天気のもと、お墓の前でみんなで般若心経を読み上げた。
みんなが読み上げる般若心経を聞きながら、ふと想いが湧いてきた。
今、こうして生きている。
僕はこの瞬間を迎えられなかった可能性もあった。
いや、その可能性の方が大きかった。
なんて素晴らしいんだろう、生きてるって、なんて素晴らしいんだろう。