「病気の名前は、肺がんです」。医師からの突然の告知。しかも一番深刻なステージ4で、抗がん剤治療をしても1年生存率は約30%だった...。2016年9月、50歳でがんの告知を受けた刀根 健さん。残酷な現実を突きつけられても「絶対に生き残る」と決意し、あらゆる治療法を試して必死で生きようとする姿に...感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)より抜粋。過去の掲載で大きな反響があった連載の続編を、今回特別に再掲載します。
※本記事は刀根 健著の書籍『僕は、死なない。』から一部抜粋・編集しました。
※この記事はセンシティブな内容を含みます。ご了承の上、お読みください。
違和感
10月になった。
体調が徐々に上向いてきた。
そうだ、ジムに行ってみよう!
何度もお見舞いに来てくれた真部会長にも、挨拶をしなくちゃ。
ジムに行ってみんなと話したり、サンドバックを打っている姿を想像すると、ワクワクしてきた。
僕は急いで支度を整えると、「無理しないでね」という妻の言葉を背に、急いで家を出た。
早く、ボクシングがしたい。
早く、サンドバッグを叩きたい。
最寄りの駅を降り、ジムに向かう道を歩いていると、なんとも言えない感慨深い気持ちになった。
もう二度と、普通の身体でこの道を歩くことは出来ないって、思ったことがあったっけ...。
ジムに向かうビルの階段を登り、ガラスのドアを開けると同時に、真部会長が満面の笑顔で出迎えてくれた。
「お帰りなさい、刀根さん、みんな待ってましたよ!」
見ると会員さんたちがみんなニコニコしながらこっちを見ていた。みんな相当心配してくれていたようだった。
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
会員さんたちが次々に握手をしてくれた。
トレーナーの一人がニコニコしながら言った。
「いやあ、刀根さん、さすがに痩せましたね。どのくらい落ちました?」
「がんになる前は61から2キロくらいだったんですけどね、最高50キロくらいまで落ちましたよ。ですから11キロ、12キロくらいでしょうか」
「50キロですか...それじゃフライ級ですね」
「ええ、減量なしでフライ級です。長嶺と一緒ですよ」
あのとき僕は、自分の教え子長嶺克則選手と同じくらいの体重になっていた。
長嶺選手は通常6~7キロ減量してフライ級の計量をクリアしていたけれど、僕は何もしないで50キロだった。
「あそこから減量したら、たぶん死にますね」僕は笑った。
あの骨と皮みたいになった体重50キロの記念写真を、1枚くらい撮っておけば良かったな、と思った。
みんなに一通り挨拶を済ますと、更衣室で着替えをした。リングシューズの紐を締め、バンデージを巻く。
一つひとつの作業を味わってやってみる。
約4ヶ月前にジムに顔を出したとき、ジムで活発に動くボクサーや会員さんたちの元気な姿を見て、「僕はここにはもう戻れない。もう二度と、あんなふうに動くことは出来ないんだ」と、涙がこぼれたことを、ふと思い出した。
そう、今、僕はここにいるんだ。
ここに戻ってきたんだ!
軽いストレッチをしてみると、身体中がバキバキに堅くなっていた。
前屈は指先が床につかなかった。以前は手のひらまでべったりと着いたのに。
でも、僕は嬉しかった。
こうして今、リングシューズを履き、トレーニングウェアを着てストレッチをしている僕がいる。
なんて幸せなことなんだろう。
ストレッチを終えて、軽くシャドーボクシングをしてみたら、すぐに息が切れた。
ジャブを早く打っただけで、はぁはぁと息が切れる。
フォームを確認しながらワンツーをゆっくりと打ってみる。
フォームは見るからにへなちょこになっていた。
身体の筋肉、特に体幹の筋肉がすっかり落ちてしまったので、地に足がしっかりと着いていない、フワフワした感じになってしまっていた。
こりゃ、ダメだな
続いてサンドバックを叩いてみた。
やっぱり、すぐに息が切れた。
5発打っただけなのに、ハアハアと息切れしてしまう。
がんになる前は、8ラウンドから10ラウンドくらいは普通に打っていたのに。
よし、今日はフォームを重視して、チョー軽めでいこう、なんたって復帰初日だし。
僕はへなちょこパンチで、サンドバックをペシペシ叩いた。
拳に伝わってくる衝撃の感触が全くなくなっていた。
まるで撫ぜてるようだ。
これじゃ当たっても、全く効かないだろうな。
僕は自分のありさまに悲しくなった。
で、そのとき、ふと気づいた。
あれ? おかしいな、なんか楽しくないぞ。
以前の僕は、サンドバックを叩くことに喜びを感じていた。
楽しくて仕方がなかった。
鏡でフォームをチェックしながらサンドバックを叩く。
うん、ちょっと重心が高い。
うん、ちょっと左足が突っ張ってる。
うん、ちょっと右の肩甲骨が使えていない。
よし、もっとこうしてみよう。
もっとああしてみよう。
すると、パンチを打ったときの拳の感触がその修正が正しいことを教えてくれた。
身体全体、一つひとつの関節や筋肉に無駄のない動きをしたときに、身体が教えてくれる「そうだ!それだよ!」という快感がたまらなく好きだった。
それらを発見して修正することが、とても楽しかった。
僕はいわゆる、ボクシングおたくだった。
しかし今、同じようにサンドバックを打っていても、何も感じない。
おかしい。
得意のステップを踏んで、パンチを打ってみる。
同じく、何も感じない。
なんだ? 全然楽しくない。
おかしい、ボクシングが楽しくない!
以前感じていた、あの喜びは、全く感じなくなっていた。
僕は、どうなってしまったんだろう?
10月12日に後楽園ホールに出かけた。
この日は僕が入院しているとき、自分の試合があった翌日にもかかわらず、東大病院にお見舞いに来てくれた勅使河原弘晶(てしがわら・ひろあき)選手の応援だった。
試合はタイトルがかかった大事な一戦で、勝てばアジア・パシフィック地域のチャンピオンになるという大事な一戦だった。
後楽園ホールに入ると、前座の試合が始まっていた。
僕が後楽園ホールに来るのは、1年と3か月ぶりだった。
あのときは、長嶺選手が関西のアマエリート出身の選手を2RでKOしたんだっけな...。
若い選手の熱い試合を眺めていると、後ろから声がかかった。
「刀根さん、お久しぶりです」
それは総合格闘技のプロ、征矢貴(そや・たかき)選手だった。
彼はボクシングの技術を学びに高校生の頃から僕のジムに通っていた。
僕もトレーナーとして、彼にボクシングの技術を教えたことがあった。
そのボクシングセンスと技術はボクサーたちに劣らぬ素晴らしいものだった。
「すみません、入院したことは知っていたのですが...お見舞いに行けなくて...」
「いいんだよ、みんなそれぞれ忙しいからね。今はこうして話せるしさ。で、征矢の方は最近どう?」
「はい、実は結婚しまして...」
「おお、そうか、それはおめでとう!良かったね」
「ありがとうございます...」
征矢選手の表情はなぜか沈んでいた。
「なんかあったの?」
「実は嫁が...白血病になりまして」
「えっ?」
「はい、以前もなってたんですけど。一度寛解したんですが、再発しまして」
「そうなんだ...」
『寛解』という言葉を普通に使っているということは、相当な闘病の経験があるということだ、と僕は思った。
「それで、バタバタしてまして」
「いやいや、それじゃしょうがないって。でも大丈夫だよ、僕も肺がんステージ4から生還することが出来たんだから。きっと奥さんも復活できる。大丈夫だって」
「はい、俺もそう思ってます」
「なんか出来ることある?」
「いえ、今のところは大丈夫です」
「じゃあ、落ち着いたらメシでも食べに行こうよ」
「はい!ぜひ食べに行きたいです」
「そうだね」
「落ち着いたら連絡入れます」
「おう、待ってるよ」
大変なのは僕だけじゃなかった。
なんか僕が役に立つことないだろうか。
ステージ4から生還した僕だからこそ、役に立てることが。
お目当ての試合は勅使河原選手の一方的な展開になり、後半にダウンを奪い、圧倒的な強さを見せてTKOで勝利、見事新チャンピオンに輝いた。
「今まで、輪島ジムでは一人もチャンピオンがいなかったので、このベルトは輪島会長にプレゼントします!」
勅使河原選手からチャンピオンベルトを肩にかけてもらった輪島功一会長が、最高の笑顔でテレビのインタビューに応えていた。
勅使河原選手は子どもの頃に継母から虐待を受け、いわゆる非行少年になって少年院に入り、その図書室で出会った輪島会長の著書を読んで感動し、更正し、ボクサーになって「今・ここ」にたどり着いた。
さっきの征矢選手もそうだけど、みんなそれぞれのオリジナルな濃い人生を送っている。
すごいな、人間の世界っていうのは。
僕は、無限の色合いのタペストリーを眺めているような気持ちになった。
それから約10日後の10月21日。
同じく後楽園ホールで、僕が教えていた長嶺選手の試合が行われた。
最強挑戦者決定戦と銘打たれた試合は、日本チャンピオンに挑戦する最強の挑戦者を決めるための重要な試合だった。
長嶺選手は日本1位まで昇り詰めていて、相手の選手は日本2位。
つまり、王者に挑戦する本当の最強挑戦者を決める戦いだった。
僕は控え室から長嶺選手に付き添ってはいたが、毎日練習を見ていたわけではなかった。
彼がこの試合に向けて何を課題とし、何を克服し、何を積み重ねてきたのかを、僕は全く知らなかった。
そのせいだろうか、一緒の空間にいても、ぽっかりとした寂しさ、自分だけ置いて行かれているような孤独を感じていた。
肝心の試合は、長嶺選手らしからぬ手数の少ない苦戦となったが、ぎりぎりで挑戦者の座を射止めることが出来た。
あとで彼から聞き出した話だと、親しくしていた人が数日前に急死してメンタルが乱れていたとのことだったが、彼は一切言い訳をしなかった。
ボクサーというのは、そういう人種なのだ。
こういう大事な試合は、結果よければ全てよし。
しかし僕は、またあの違和感を感じてしまった。
ボクシングの聖地、後楽園ホールという空間に、男たちが命を懸けて挑む祭りの空間に、明らかに感覚のズレを感じていた。
こんな感覚で、こんな中途半端な気持ちで、僕はまたこのボクシングという過酷な世界に戻れるんだろうか?
僕は自問自答しながら後楽園ホールを後にした。
なんなんだろう、どうしたんだろう?
おかしい...。
もしかして...。
僕自身のBeing(存在)のフィールドが変わってしまったのかもしれない。
つまり、ボクシングが大好きだった僕はがんで消えてしまった。
今の僕は外皮は同じ人間だけれど、がんを体験したことで、中身はまったく変わってしまったんではないだろうか?
この違和感は、それを教えているんじゃないだろうか?
僕はいったい...。
そしてついに、僕に次の試練がやってくることになる。