「私の中の何かがプツンと切れて」ヒステリックに人格否定する「毒母」から逃げる決心をした日<前編>

「わけあって、最近長年勤めた会社を辞めて、念願の専業主婦になりました。私が仕事を辞めた理由...。それは母が関係しているんです」

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■小さい時は母にとって「いい子ちゃん」だった私

幼少期の私は親の言うことをよく聞く、いわゆる育てやすいいい子だったと思います。

対して兄は自由奔放でやんちゃ、なんでも好き勝手して学校でも家でもよく怒られていました。

反面教師で私は親の地雷を踏むようなことはせず、言われたことは守り、要領よくしていたのでしょう。

怒られることはあまりなかったと記憶しています。

ただ、今考えると自分の意見を言う前に母が勝手に決める、何か言うと否定されることが多く、この頃は自分を押し殺していたように思います。

学生時代は、何かとよく母と衝突していました。

ささいなことですが、食事の手伝いをしていると必ずあったやり取りが思いだされます。

お皿を準備する際、煮物だからこの大きさと深さかな、と思って出すと、「違う。煮物はこれでしょ、何を考えているの? ◯才にもなって何も分からないのね」などと否定され、分からないなら聞きなさいと叱責されます。

また別の日に、どのお椀がいいのか迷って、「どれ出す?」と聞くと自分で考えて出しなさいと言われます。

この言い方がまた人格否定するような嫌味な言い方をするのです。

「茶碗の準備もできないような人が大学に行って勉強してどうするの? 何の役にも立たない」など。

もう何もかもやる気が失せるような言い方です。

そして、スイッチが入ると過去のことを蒸し返して説教が始まります。

父は寡黙でしたが私とは話をするし、怒られることも口喧嘩もなくいい関係でした。

母のことは大好きでしたが、言い合いが始まると平行線で譲らず、責めたてられ自分だけが悪いのかとモヤモヤすることが多かったのです。

就職して結婚、こどもも産まれ、母のサポートありきで仕事を続けていました。

しかし会社も色々あり、仕事を辞めたいと悩んでいたときのことです。

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