63歳で脳内出血で倒れた母。腎不全を患いながらも天寿を全うしました

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ペンネーム:あめゆじゅ
性別:女
年齢:54
プロフィール:昨年の秋に認知症でパーキンソン病の父(85歳)を呼び寄せ、親子三代で暮らしています。

※ 毎日が発見ネットの体験記は、すべて個人の体験に基づいているものです。

◇◇◇

母親という生き物はきっと不死身。そんな風に思いたいほど、母親は私にとって心の支えになる存在でした。たとえ年を重ねてもまだまだ元気な時は、わたしにとって母親というのは多少の無理も何とかしてくれる心強い存在だったのです。

そんな頼りになる母ですが、母の趣味である華道の展覧会があった関西の会場で、脳の血管が切れて救急搬送されてしまいました。私が里帰り出産をするために実家に戻って、半月くらい経った頃でしょうか。その時母は63歳でした。

左の脳内血管が破裂、意識不明。その時に分かったことは、腎臓もかなり悪く、心臓が肥大。後で分かったことは、太っていたわけでもないのに、コレステロール値が高かったのです。数日前、28歳で初産を迎える私の検診にも付き添ってくれた母は、ICUで横たわる人になってしまいました。

意識の混濁も一月ほど続いたように覚えています。

母の入院から半月後、私は無事に長男を出産しましたが、母はそのことを認識できないままでした。私は、母のお見舞いがてら様子を見に来てくれた叔母たちに支えられ、一カ月後には長男を連れて夫と住む関東の自宅に帰宅することができたのですが、母には長男を会わせることはできませんでした。

そんな状態の母でしたから、医者からはこのままどうなるかわからないとも言われました。

ですが、その後意識が回復し、10カ月近くの入院生活を経て自宅に戻ってくることができました。

後遺症は右半身のマヒだけではありません。母は突然倒れたその日以来、腎臓病患者になったのでした。

母にとっても介護者になる父にとっても、人工透析なんて初めてのこと。人工透析の知識も全くなく、とにかく戸惑うことばかり。カリウムやリンを含む食事はダメ、水分や塩分も控えるなどの食事制限、そして数々の専門用語。今のように病人食の宅配もなかったので、食事一つとってみても大変なことでしたが、まだ若かったことや性格が真面目だったこともあり、模範的な腎臓病患者になりました。

旅行透析などという知識も全くなかったのですが、受けいれてくれる病院さえ見つかれば、旅先での透析も可能だということを、知人の透析患者さんから教えてもらいました。不自由な体でしたが、これを利用して父に連れられて関東に暮らす私達の家にも何度か遊びに来てくれました。

なので、母は長男が生まれたときは、ハイハイをするような頃になってから、やっと会えたような状態でしたが、次男や三男が生まれたときは、もっと早い時期に会いに来ることもできたのです。

その後、大きな震災に見舞われてしまい、母の通う透析病院が機能不全に陥るという大変な思いもしましたが、ライフラインの復旧まで私たちの暮らす家に居候し、幼かった息子たちとも半年近く楽しく暮らすことも出来ました。

母は腎臓病患者になってから20年後の83歳で腎不全で亡くなりました。母の人生の4分の1が人工透析生活でした。不自由さはありましたが、小旅行をしたり4人の孫にも会うことができ、いつまで生きるかわからないと言われながらも、長く生きることができたのでした。死亡理由は腎不全となっていますが、母は天寿を全うしたのだと思います。

あと10年もしないうちに、私は母が倒れた時の年齢になります。それを考えると複雑な気持ちになりますが、仮に何かがあっても、素直に受け入れて前向きに生きていこうと思っています。

健康法や医療制度、介護制度、金融制度等を参考にされる場合は、必ず事前に公的機関による最新の情報をご確認ください。
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