「また会おうね、待っててね」闘病の末に45歳で亡くなった友人と交わした「最後の約束」<前編>

「私には小学校から45年以上交友関係が続く友人が複数います。その中でも、O子についてお話させてください。お互い忙しく過ごしており、会う回数は減っていましたが、それでも会えばすぐに子どもの頃のように盛り上がれる大事な友人です。子育ても一段落した41歳の頃、友人グループの1人から、O子に関するショッキングな連絡を受けたのです」

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■親友の不安に寄り添いたい。週に1回手紙を書くことに

1970年に地方都市で生まれた私は、小学校から高校までの一貫校で過ごしたため、今では45年以上交友関係が続く友人が複数います。

その中の1人(以下O子とします)との「別れ」について聞いてください。

私が通っていたのは小学校から高校まで1学年3クラス構成の小規模な共学で、O子とは小中高の12年間を共にしました。

大学や就職先は別でしたが、同じ地方都市内だったので、O子と私を含めた気の合うグループで、一緒にアルバイトをしたり、会食したり、旅行したりする関係が続いていました。

20代後半から40歳頃までは、私は結婚し東京へ転居、その後出産・育児に忙しく過ごしていました。

同じ頃O子は地元で仕事を続けながら結婚、順調に昇進し、子どもはできなかったけれど家事もがんばってこなしていた時期でした。

その20年間は会える頻度は激減しましたが、会えば一瞬で子どもの頃のように話が盛り上がる大事な友人の1人でした。

私の子育ても一段落した41歳の頃、同じ友人グループの1人から、O子に関する衝撃的な連絡を受けました。

「O子が体調不良で精密検査を受けたんだけど、その結果が深刻らしい」

友人グループは、運のよいことに女医さんが多く、他の同窓生にも男女ともに医療関係者が多数いました。

この知らせを受けた地元の友人たちがいちはやく動き、検査から治療方針の提案、治療開始まではとてもスムーズに進みました。

私はO子から直接連絡をもらい、地元のカフェで会いました。

「この先の治療でO子が痛かったり、しんどかったりすることが、できるだけ少ないことをいつも願ってる。いつも考えてる」

そう私が伝えると、気丈にしていたO子の目から涙が一粒落ちました。

私も泣きました。

医療関係者ではない私にできることは治療への不安を共有すること、そして不安な心に寄り添うことだけでした。

週に1回くらいの頻度で「返事は書かないで、読めるときに読んで」という約束で手紙を定期的に送りました。

私のパート先の話、人から聞いたおもしろかったこと、昔の思い出、などたわいのない話です。

O子の治療と治療の合間の体調のよいときは、友人グループで旅行することもできましたが、O子は体がしんどいと横になっていたこともありました。

内科の友人に触診してもらっている様子を見ていて、人の手で触れてもらうことをO子が希望しているように見えたので、「医者じゃないけど、触っていい?」と私が尋ねると「いいよ」と言ってくれました。

私は病気のあるおなかの部分に少し触れた後、彼女の手や首のあたりを普段と同じ会話をしながらさすりました。

もともと小柄なO子の手は子どものように小さく「小学校のときのアトピー、すっかり治ったね」とか「スマートだったから、あんまり変わらないね」などと言いながら。

O子が私そのもの、私の姉妹、私の子どものようにも思えてきて胸がいっぱいになりました。

そんな数年が続き、私もO子も45歳になった頃のことです。

健康法や医療制度、介護制度、金融制度等を参考にされる場合は、必ず事前に公的機関による最新の情報をご確認ください。
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