おばさんの家を目指して 1945年8月10日夕方 東小島到着
生き残った子供たちに別れを告げ、私と妹は歩き出しました。戦時中は、誰もが左胸にスマートフォンの半分くらいの大きさの名札を縫い付けていました。私たちの名札には、住んでいた「駒場町(こまばちょう)」ではなく、「東小島(ひがしこしま)」と書いてありました。そこは、おばさんの家の住所です。おとうさんは6人きょうだいの長男で、おばさんは上から4番目の長女でした。おとうさんとおかあさんの「いざという時は東小島へ行け」という声が聞こえた気がしました。両親が一番信頼していたのがおばさん夫婦だったのです。私たちは顔を見合わせ「東小島に行こう」と言い、歩き出しました。
我が家は簗橋(やなばし)を渡ってすぐのところでしたが、橋は渡らず、浦上川沿いに南へと歩き始めました。数えきれない死体と負傷者の中をただ黙って歩きました。途中で稲佐橋(いなさばし)を渡り、長崎駅まで来ました。ここまで3キロです。また南に歩きました。丸山、思案橋を通って、東小島の正覚寺(しょうかくじ)を目指します。正覚寺からおばさんの家はすぐです。
しかし、丸山あたりに来ると、死体がなくなり、負傷者もいなくなりました。それどころか、人ひとり、犬1匹、猫1匹いません。底知れない恐怖が襲ってきました。無人の町は言いようのない不気味さだけを漂わせています。私は心の中で「正覚寺、正覚寺、正覚寺を過ぎれば、おばさんがいる」そう呪文のように繰り返していました。
同じ恐怖の中にいた妹がたまりかねて言いました。
「おばさんたち、おるやろか(いるだろうか)」
それこそ私が必死で頭の中から振り払っている言葉でした。繋いだ手を強く握りしめました。そしてまた誰もいない町、誰もいない空っぽの家と家の間を歩いていきました。
そして、ついに正覚寺が見えました。近くの家の中に人の気配を感じました。その気配は進むにつれ次第に増えていきます。「もうすぐ、あと少し」自分を勇気づけながら、また繋いだ手に力を込めました。おばさんの家に上がる細い石段の下に来ました。「ここを上がると」と、石段を見上げました。

いた! 見上げた先におばさんが、おじさんが、そして心配して集まっていた近所の人たちがいたのです。歓声があがりました。皆が私たち2人を見て歓声をあげたのです。
「良かった、よう来た」
おばさんとおじさんが泣いて喜んでくれました。






