『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』

鹿児島の女の子 1945年8月10日7時〜8時(原爆投下から21時間)

男の子と手を繋いだまま、真っ直ぐに歩きました。私がいつも使っていた浜口町(はまぐちまち)の路面電車停留場あたりでしょうか、「おねえさん」と声をかけられました。振り向いてゾッとしました。髪の毛が茶色く逆立ち、着ているものもボロボロの女の子が立っていました。「◯◯です」と名乗りました。隣町の工場で一緒だった14歳の女の子です。「鹿児島に帰りたい」と言います。どうにかしてあげたい、でもどうすることもできません。「長崎駅に行ってみたら」それしか言えませんでした。そう言って、長崎駅の方を指差すことしか。私自身もいっぱいいっぱいだったのです。

『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』 19450809_5_1.webp

ほんの数分歩くと浦上(うらかみ)のグラウンドです。そこも爆風で全て飛ばされ何もありませんでした。竜巻が起きたあとのように、グラウンドの端の方には飛ばされた死体や瓦礫が寄っていました。グラウンドから我が家までは200メートルくらいです。それまでは家々が立ち並び、見えないはずの我が家の方までがスポーンと見えました。あたり一面、全てが吹き飛ばされて平らになり、真っ黒に焼けていました。海星(かいせい)の生徒とはそこで別れました。何か言葉を交わしたようにも思いますが、覚えていません。

もう一度、家の方を見ました。家までは2分もかからない場所です。やはり、町は影も形もなく、全てがなくなっていました。家が見えたはずです。しかし、そこから目を背けました。家のすぐ向こうにある簗橋(やなばし)という橋に行きました。簗橋から手前3軒目が我が家です。しかし、そちらは見ませんでした。

油木町(あぶらぎまち)に、町の横穴防空壕があります。浦上川にかかる簗橋を渡り、500メートルほど行くと、その防空壕です。家族はそこにいるかもしれないと思いました。

簗橋の上は、下って来たあの川沿いの道以上に無惨な状態でした。膨れ上がった死体が数えきれないほど転がり、浦上川は水欲しさに下りた人たちの死体でいっぱいでした。

 
※この記事は『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』(森田富美子、森田京子/KADOKAWA)からの抜粋です。
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