「病気の名前は、肺がんです」。医師からの突然の告知。しかも一番深刻なステージ4で、抗がん剤治療をしても1年生存率は約30%だった...。2016年9月、50歳でがんの告知を受けた刀根 健さん。残酷な現実を突きつけられても「絶対に生き残る」と決意し、あらゆる治療法を試して必死で生きようとする姿に...感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)より抜粋。過去の掲載で大きな反響があった連載の続編を、今回特別に再掲載します。
※本記事は刀根 健著の書籍『僕は、死なない。』から一部抜粋・編集しました。
※この記事はセンシティブな内容を含みます。ご了承の上、お読みください。
あれから1年...
8月末、2週間ぶりに東大病院へ行った。
体調がスッキリしないこともあって、診察室に入る前の不安は相変わらずあった。
診察室に入ると井上先生がにこやかに言った。
「体調はいかがですか?」
「いやあ、ステロイドを止めたせいだと思うのですが、本当にダルいです。まるでがんが全身にあったときみたいですよ。身体が重くて仕方がありません」
「そうですね、ステロイドのリバウンドですね。それはしばらくしょうがないと思います。そのうちに、身体が対応してくれて、その症状はなくなりますからご安心ください」
「そうなんですね」
そうなのか、これはやっぱりステロイドを止めた事による副作用なのか。
ドクターからそう言われると、ほっとする自分がいた。
「ええ、お体の具合は血液検査で大体分かります。刀根さんのがんは血液検査の数値に出るタイプなので、分かりやすいのです」
「血液検査で分かりにくいタイプもあるんですか?」
「はい、腫瘍マーカーに出にくいタイプのがんもありまして...でも刀根さんの場合は以前数値が高く出ていますので、数値で計れるタイプのものです。で...」
井上先生は血液検査の数値に目を落として言った。
「また数値が良くなってます。ALPは393から274に下がりました。基準値に入りました。KLー6も829から433、こちらも基準値をクリアしましたね。この分だと腫瘍マーカーCEAも順調に落ちていると思われます。良かったですね」
やった、やったぞ!
ダルさとがんからの回復とは、別物だったんだ。
自分の状況改善が数値で分かることの安心感は絶大だった。
「とにかくいい傾向です。肝臓の数値も変わらず、いい数値で来てますし、アレセンサを通常量に戻しましょう。」
井上先生が嬉しそうに言った。
「ありがとうございます」
「目のほうは、どんな感じですか?」
「ええ、放射線をやったほうがいいと言われましたけど、僕はこのままアレセンサで行きたいと思ってます」
「そうですね、今のところはそれでいいと思います。アレセンサがホントにいい働きをしてくれていますので。もし効かなくなってきたり、悪くなるようだったら、数値ですぐに分かりますから」
そのあと、今度は眼科へ行った。
僕は何度も病院に足を運ぶより、1日ですませてしまったほうがいいと思ったので、なるべく同じ日に複数の診察を入れていた。
視力検査の後で、名前を呼ばれて診察室に入った。
ドクターは、僕の目を例のスコープで覗き込んだあと、こう言った。
「うん、とりあえず状態は落ち着いているようですね。やっぱり適合率100%っていうのが効いているのかもしれません。私のこれまでの経験だと放射線治療の範疇なんですが、このまま様子を見ていくことにしましょう」
「はい、ありがとうございます」
「お薬はなんでしたっけ?」
「アレセンサです。ALK融合遺伝子に効く分子標的薬です」
「そうなんですね、良く効きますね。私にとっても初めてのケースですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、珍しいと思います、えっと、アレセンサ...ですね」
「はい、そうです」
ドクターはメモを取ると、念押しするように言った。
「状況が悪化するようだったら、やりますからね、放射線」
やった、やったぞ
これで目の放射線治療はクリアしたぞ。
さおりちゃんと作った目標の第1番目はクリアだ。
視界は相変わらず強烈に歪んでいたけれど、なんとか入院リスクはクリアした。
自分で立てた目標通りの展開がやってきた。
よし、次は声が出ることだな。
9月1日。
あの肺がんステージ4宣告の日から、ちょうど1年が経った。
あれから1年...。
あのとき、1年後に生きているなんて想像できなかった。
最初の大学病院の、狭く薄暗い待合室...。
コホコホと響く咳...。
使い古された濃い小豆色の長椅子...。
そして...掛川先生の苦虫をかみつぶしたような表情...。
「肺がんです...治りません...」
「肺がんは、がんの中でも難しいがんなんです」
「刀根さんは、抗がん剤しか、やりようがありません。抗がん剤が効く確率は残念ながら40%です」
「そうやって延命していくしか、ないんです」
僕は、それを受け入れられなかった。
確かに、あのとき掛川先生の話を全て受け入れてしまって、あの病院の言うがままの治療をしていたら、僕はたぶん死んでいただろう。
それは間違いない気がする。
治験も受けなくて本当に良かった。
あやうく人体実験の材料にされるところだった。
僕は思う。
医者がネガティブなことを言うとき、それを受け入れてはいけない。
1年生存率が30%だって?
5年生存率が10%以下だって?
そんな数値は僕には関係ない!
それは、僕以外の過去の誰かのことであって、今生きている僕ではない。
なぜなら、僕は彼ら病院の言う統計数値には入っていないから。
はっきりと言おう、そんな数値は、全く関係ない。
自分の命は自分で決める。
井上先生を含めて、どんなにいい医者でも、彼らにとって僕たち患者はたくさんいる患者のひとりに過ぎない。
しかし、僕たちのいのちはひとつきり。
一人にひとつしかない。
だから、自分のいのちを決して他人任せにしてはいけない。
自分のいのちの責任は自分で持たなくちゃいけない。
それが、本当に自分を大切にするということだと思う。
あれから本当にいろいろなことがあった。
たくさんの人に出会った。
たくさんの人に助けられた。
たくさんの人の愛を受け取った。
たくさんの気づきがあった。
僕は、あのときの自分では想像が出来ないような道を通って、今、ここにいる。
漢方を教えてくれたナンバさん、漢方のサラ先生、自強法のトキさんには奇門遁行もやってもらった。
立川のクリニックのドクター、がん専門のヒーラー山中さん、カウンセリングをしてくれたさおりちゃん、南伊勢のヒーラー河野さん、東大病院の先生たち、心臓の主治医の松井先生には診療範囲外なのに肺のCTを撮ってもらったっけ...本当にいろいろな人たちに助けられた。
僕を心配してくれた友人やボクサー、会社の人たち。
家族、二人の子ども...そして妻。
妻が彼女じゃなかったら、僕は今、こうして生きていなかっただろう。
彼女が僕と結婚してくれたから、彼女が僕を支えてくれたから、僕はこうして今、ここに生きていることが出来る。
僕と結婚してくれて、ありがとう。
僕と一緒に生きてくれて、本当にありがとう。
がんになる前、僕は妻に「愛している」って言えなかった。
「愛」という言葉を口にすると、なんだか嘘くさく感じてしまったから。
言葉だけの上っ面みたいに感じて、「好きだよ」は言えても「愛してる」とは口にすることが出来なかった。
でも僕は、がんになったことで「愛」という感覚を取り戻すことが出来た。
「愛」というのは「あ・い」という二つの音の集合体ではなく、ある周波数の領域のことだ。
目に見えないその周波数(あるいは波動)に自分がアクセスして共振すると、僕も「愛」そのものになる。
それは寺山心一翁先生のスマイルワークショップで体験したことだ(詳細は『僕は、死なない。』をご参照ください)
僕は病院のベッドの上で、KOKIAさんの「愛はこだまする」を聴きながら、自分を「愛する」という体験がたくさん出来た。
それで「愛」という周波数の"感じ"をつかむことが出来た。
すると不思議なことに、妻に自然に「愛してるよ」と言えるようになった。
そう、今僕はなんの照れや違和感もなく、心から妻に、
「愛してるよ」
と言うことが出来る。
そう言って、ハグすることが出来る。
これもがんになることで、出来るようになったこと。
がんになったことで、僕の人生が豊かになったことは、間違いない。