「病気の名前は、肺がんです」。医師からの突然の告知。しかも一番深刻なステージ4で、抗がん剤治療をしても1年生存率は約30%だった...。2016年9月、50歳でがんの告知を受けた刀根 健さん。残酷な現実を突きつけられても「絶対に生き残る」と決意し、あらゆる治療法を試して必死で生きようとする姿に...感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)より抜粋。過去の掲載で大きな反響があった連載の続編を、今回特別に再掲載します。
※本記事は刀根 健著の書籍『僕は、死なない。』から一部抜粋・編集しました。
※この記事はセンシティブな内容を含みます。ご了承の上、お読みください。
生きてるだけで...
あっという間に診察に行く予定の8月10日になり、僕は病院に向かった。
ステロイドを止めた事による身体のダルさは相変わらず続いていた。
胸の中のチクチクした痛みは続いていて、時折肋骨がつ~んと痛くなったりしていた。
夜、布団の中で横を向くと、肺がつぶれるせいか、息苦しくてまだ横を向いて寝ることが出来なかった。
肺活量が絶望的に下がっていたので、大きく息を吸い込めず、あくびも出来なかった。
治ってきているとは思っていたけれど、不安もあった。
僕の身体は、ホントに大丈夫なんだろうか?
血液検査の結果がまた悪くなってるんじゃないだろうか?
診察室に入る前、少しドキドキと心臓が高鳴った。
これが再発の不安ってやつなのか...。
やはり体調が悪いと、気持ちも引きずられて下がってしまう僕がいた。
名前を呼ばれて診察室に入ると、井上先生が嬉しそうに言った。
「血液検査の数値、また下がっていますね」
ほっ...良かった...。
僕の心配をよそに、血液検査の数値は更に改善していた。
腫瘍マーカーCEAは南伊勢から帰ってきた後の7月20日に計った34.2から、約1ヶ月で半分近くの16.6まで下がった。
よし、これで基準値の5.0以下が現実的な数値として見えてきたぞ。
骨転移の指標としているALP(基準値322)は先月27日は536だったが393へ、肝臓転移の指標としているKL-6(基準値500)は先月1157のところ829へ、それぞれ調子よく下がっていた。
また、基準値を超えていた肝臓の数値ASTとALTも基準値に入った。
井上先生は血液検査のデータを見ながら言った。
「念のため、もう2週間、アレセンサを半分の量で服用しましょう。次回の数値を見てこのまま問題なければアレセンサの量を通常量に戻すことにしたいのですが、よろしいですか?」
「あ、はい、分かりました」
ちょっと不安だけど...まあ、いいか。
最近の身体のダルさや体調不良も重なって、一日でも早くアレセンサを通常量に戻したいという気持ちもあったが、僕は井上先生の指示に従った。
ま、そんなに早く元に戻る訳ないな。
だってまだ退院してから1ヶ月なんだから。
焦らない、焦らない。
翌々日の8月12日、僕は家族と一緒に実家に帰省した。
実家には両親と姉夫婦、姉の長男と僕の4人の家族、全員で九人が揃った。
僕のつるつる頭を見慣れていないはずなのに、みんな何も言わずに笑顔で迎えてくれた。
「ね、結構似合うでしょ。お坊さんみたいでしょ。このまま出家しようかな」
僕が両手を合わせて般若心経を唱えるふりをすると、みんな笑った。
「おととい診察があってね、また数値が落ちてたんだよ。CEAが16.6まで下がってたんだ」
「それってすごいの?」
母が聞いた。
「うん、入院してたときは50だったからね。基準値は5.0なんだ。だからこの調子でいけばもうすぐだよ」
「すごいね~...ホントに良かったわ~」
母の目が感謝でうるんだ。
「最新医療は本当に素晴らしい。奇跡みたいなことが起こるんだ。いや、最先端の医療技術はどんどん進んでいるんだ。人類の進歩はすごい。さすがは東大病院。ほんとに良かった」
父は一通り医療と病院を褒めちぎると、僕を見ていった。
「先生にお礼とか渡さなくてもいいのか?」
「お礼って?」
「お菓子とか、そういう...」
「今はそういうの禁止になってるらしいんだ」
僕は入院中に、お見舞いでもらったお菓子を看護部に寄付しようとして、担当の島田さんにそう言われたのを思い出した。
「そうなのか」
父は少し残念そうに言った。
「でも、本当に良かった。本当に感謝しかない。実は入院する前にお母さんと三人で会ったとき、健が帰った後お母さんが泣き出しちゃってね。あのままだと、あまり長く持たないかもって...」
父はそう言うと、しんみりと母を見た。
父に代わって母が口を開いた。
「あのときは正直、もうダメかもって思ったわ。会うたびにどんどん痩せていっちゃうし。でも目だけギラギラしていて、『大丈夫、大丈夫』って言って、私たちが何を言っても聞きそうになかったし...お父さんと、もう健に任せるしかないって言ってたのよ」
「そうなんだ...」
「私もお父さんも、本当に、どれだけあなたの身代わりになりたいって思ったことか...毎日神様にお祈りしていたの」
僕は闘病中の母の気持ちを初めて聞いて、何も言えなかった。
「でも、本当に良かった。神さまに感謝だわ。ああ、なんてありがたいのかしら」
「そうだね、本当にありがたいこどだね」
「私はね、あなたが生きていてくれるだけでいいの。健が生きているだけで、私は幸せなの」
母はそう言って、涙を拭いた。
生きているだけで...。
そうか...そうだったんだ。
そのとき、僕の心の中で深い安らぎが広がった。
生きているだけで、生きているだけで良かったんだ。
僕たちは、自分にいろいろと制約をかける。
~しなくちゃダメ。
~できなくちゃダメ。
~してはダメ。
~までクリアできなくてはダメ。
迷惑かけちゃダメ。
他人を喜ばせなくちゃダメ。
一生懸命頑張らなくちゃダメ。
弱いとダメ。
役に立たないとダメ。
ダメ、ダメ、ダメ...。
いっぱい、いっぱい、自分に制約をかけて、その制約をクリアしたときだけ、自分にオッケーを出す。
僕は、自分が完璧でなくてはダメだと思っていた。
完璧でない自分は存在してはいけない、くらいに。
僕はそうやって、自分に負荷をかけ続けた。
だから、がんになった。
本当は違う。
人は、生きているだけでオッケーなんだ。
それだけで、それだけで良かったんだ。
父も母も、最初からそうだったんだ。
僕は、生きているだけでオッケーだったんだ。
それなのに、僕は勝手に壁や思い込みを作って、自ら作ったその壁や思い込みで病気になってしまった。
病は気から...というけれど、それは本当のことなんだな。
がんという体験は、そういう自分で作った思い込みや壁が本当は幻想だった、と言うことを気づかせてくれた。
そう、あれは自分で勝手に作り上げたフィクションだったんだ。
「ありがとう。ご心配をおかけしました。とりあえず、もう大丈夫です。がんはほとんど消えたし、数値も順調に落ちてるから」
「会社の方はどうなの?」
「うん、11月末の休職期間いっぱいまで、休んでいいって言ってくれてる」
「そうか、それは本当に助かるな」
「いい会社ね~」
「ホントにいい会社だよ」
僕は心からそう言った。
そのとき、僕はその後に待ち受けていることなど、まったく知る由もなかった。