「あの夏」は、もう誰にも経験させない、させたくない――。戦争体験者として自らの言葉を発信し、Xで8.5万フォロワーを持つ「わたくし96歳」こと森田富美子さん。『わたくし96歳が語る 16歳の夏~1945年8月9日~』(KADOKAWA)は、富美子さんが16歳のときに長崎で被爆し、両親と3人の弟を失った「あの日」を語り、長女・京子さんが紡いだ戦争の記憶です。 戦後80年、戦争体験者、被爆体験者が年々減り続けているなか、この貴重な語りをどう受け止めるのか、私たちの姿勢が問われます。
※本記事は森田富美子、森田京子著の書籍『わたくし96歳が語る 16歳の夏 ~1945年8月9日~』(KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました。
鹿児島の女の子 1945年8月10日7時〜8時(原爆投下から21時間)
男の子と手を繋いだまま、真っ直ぐに歩きました。私がいつも使っていた浜口町(はまぐちまち)の路面電車停留場あたりでしょうか、「おねえさん」と声をかけられました。振り向いてゾッとしました。髪の毛が茶色く逆立ち、着ているものもボロボロの女の子が立っていました。「◯◯です」と名乗りました。隣町の工場で一緒だった14歳の女の子です。「鹿児島に帰りたい」と言います。どうにかしてあげたい、でもどうすることもできません。「長崎駅に行ってみたら」それしか言えませんでした。そう言って、長崎駅の方を指差すことしか。私自身もいっぱいいっぱいだったのです。

ほんの数分歩くと浦上(うらかみ)のグラウンドです。そこも爆風で全て飛ばされ何もありませんでした。竜巻が起きたあとのように、グラウンドの端の方には飛ばされた死体や瓦礫が寄っていました。グラウンドから我が家までは200メートルくらいです。それまでは家々が立ち並び、見えないはずの我が家の方までがスポーンと見えました。あたり一面、全てが吹き飛ばされて平らになり、真っ黒に焼けていました。海星(かいせい)の生徒とはそこで別れました。何か言葉を交わしたようにも思いますが、覚えていません。
もう一度、家の方を見ました。家までは2分もかからない場所です。やはり、町は影も形もなく、全てがなくなっていました。家が見えたはずです。しかし、そこから目を背けました。家のすぐ向こうにある簗橋(やなばし)という橋に行きました。簗橋から手前3軒目が我が家です。しかし、そちらは見ませんでした。
油木町(あぶらぎまち)に、町の横穴防空壕があります。浦上川にかかる簗橋を渡り、500メートルほど行くと、その防空壕です。家族はそこにいるかもしれないと思いました。
簗橋の上は、下って来たあの川沿いの道以上に無惨な状態でした。膨れ上がった死体が数えきれないほど転がり、浦上川は水欲しさに下りた人たちの死体でいっぱいでした。






