平時には必要だが、旅に出る時にはいらない。「習慣化と脱習慣」/岸見一郎「生活の哲学」

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「習慣化と脱習慣」です。

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習慣を自由になす

カント(※1)の散歩する時間はいつも決まっていて、ケーニヒスベルクの人々はカントを見て時計を合わせたという逸話が残っている。

習慣がなければ生きられない。

習慣があれば、その都度どう行動すればいいか決めなくていい。

あらゆることが絶えず初めて経験することであったら、たちまち生きていくことができなくなる。

日常生活をある程度習慣的にこなすことは生きていくために不可欠である。

同じ行為が反復されると習慣になる。

しかし、習慣が単なる機械的な繰り返しになってしまうと、本来生きることに有用なことであったはずなのに、かえってそれが人生を阻害し妨げになることがある。

三木清※2はそれを「デカダンス」という。

デカダンスは退廃という意味だが、道徳的退廃のことだけをいっているのではなく、精神を失って形骸化したありさまを指している。

例えば、挨拶を習慣化しようとする人がいる。

挨拶をしたりされたりすると、気持ちがよくなり対人関係もよくなるが、挨拶を習慣化して強制すると、たちまち挨拶の本来的な意味が見失われてしまうことになる。

このようなことにならないためには、習慣を自覚的に使いこなさなければならないと三木はいう。

「習慣を自由になし得る者は人生において多くのことを為し得る。習慣は技術的なものである故に自由にすることができる」(『人生論ノート』)

「習慣を自由になし得る」ためには、まず、何のための習慣なのかを理解していなければならない。

理解していなければ、習慣はただ守ることが大切なことになってしまう。

大抵の習慣は無意識的になされるが、「習慣を自由になし得る」人は、この習慣を何のために身につけなければならないかを理解している。

だから、必要があれば、習慣をやめることもできる。

車の運転はある程度習慣化しなければできないが、今日は大雪だからいつもと同じような運転をしてはいけないと思える人は習慣を自由になし得ているのである。

そう考えない人は、雪の日でも普通のタイヤで出かけてスリップ事故を起こすかもしれない。

以前病気で入院していた時、私は個室にいたのだが、ベテランの看護師は何かの処置をする時、必ず私の名前をたずねた。

私はフルネームで答えた。

名前を問うことが習慣化していたのである。

私は他に患者がいないのに、しかも長く入院しているのだからもう名前をたずねるまでもないだろうと思ったのだが、この習慣にはわけがあった。

フルネームをたずねることを習慣化しておかないと、私を他の患者と間違えることはなくても、他の患者の場合には間違えることはありうるからである。

間違いを避けるためには、例外を作ってはいけないのである。

習慣をやめるにしても合理的な根拠が必要である。

コロナ禍の今はマスクをしなければならない。

マスクをするのは面倒だが、一旦習慣になるとそれほど面倒とは思わなくなる。

しかし、感染者数が少なくなると、マスクをする習慣をやめる日がくるかもしれない。

問題は、マスクを外してもいいという判断を軽々にできないことである。

独断は危険であり、自分でも納得しないままに権威に従うというのも間違いである。

次に、習慣が形成される機序を知っていなければならない。

石は百万回同じ方向に同じ速度で投げられても、そのために習慣を得ることはない。

「普通に習慣は同じ行為を反覆することによって生ずると考えられている。けれども厳密にいうと、人間の行為において全く同一のものはないであろう。個々の行為にはつねに偶然的なところがある。我々の行為は偶然的な、自由なものである故に習慣も作られるのである」(前掲書)

石の落下とは違って、人間の行為はたとえ習慣的なものであっても、次に必ず同じことをするとは限らず、偶然的であり自由に選択する余地がある。

「習慣において自己は自己を模倣する。自己が自己を模倣するところから習慣が作られてくる」(前掲書)

前にしたことを模倣し、それを繰り返し行うことから習慣が形成されるのだが、前の行為を模倣するかは自分で決めるのである。

習慣が技術的なものであるというのは、習慣が意図的で人間の意志から始まるという意味である。

習慣が形骸化するのは、この模倣の決心があまりに無意識化され、なぜこの習慣が必要かを考えなくなるからである。

そうなると、三木は、「人生において或る意味では習慣がすべてである」(前掲書)とまでいっているが、「習慣によって我々は自由になると共に習慣によって我々は束縛される」(前掲書)。

※1 1724~1804年。プロイセン王国(ドイツ)の哲学者、ケーニヒスベルク大学教授。著書に『純粋理性批判』などがある。

※2 1897~1945年。哲学者。『人生論ノート』は発表から80年を超えて読み継がれている。

脱習慣の必要

ギリシアの哲学者ディオゲネスは、彼に時計(ホーロスコペイオン)を見せた人に「それは、御馳走に遅れないためには便利な道具だね」といったと伝えられている(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』)。

ディオゲネスは、時間に縛られて生きる現代人の姿を予見しているようだ。

最初に見たカントは、貧しくても時計は最後に売るものだといったとも伝えられている。

カントの規則的な習慣は時計によって得られたものだったのである。

習慣がなければ生きられないが、習慣から脱したいと思うことはあるだろう。

三木は旅について次のようにいっている。

「旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである」(前掲書)

平時には習慣は必要だが、旅に出る時は習慣はいらない。

「出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味うことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといわれるのである」(前掲書)

毎日、通勤している人は今日はどこへ出かけようと考えない。

そのような日常は安定しているが、旅に出ることは安定した関係を脱することである。

そして、人生は─旅である。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

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『老後に備えない生き方』

(岸見一郎/KADOKAWA

2018年から2020年3月号までの連載が一冊になりました。読者の皆さんから寄せられた質問を手掛かりに、ギリシア哲学の専門家である岸見先生がアドラー心理学も駆使しながら、より良く生きるための考え方を考察します。

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この記事は『毎日が発見』2022年1月号に掲載の情報です。

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