深い愛の根底には他者への信頼がある「孤高に生きる」ということ/岸見一郎「生活の哲学」

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「孤高に生きる」です。

pixta_76449237_S.jpg他者に依存して生きる人

人は一人では生きられない。

しかし、人と関われば、妬まれたり、いわれのない批判や非難をされたりすることもある。

そのようなことを経験すると、これ以上傷つけられたくはないと思って、誰とも関わらないでおこうと決心する人がいても不思議ではない。

それでも、ずっと一人ではいたくはない。

楽しそうにしている人たちがいれば、前の痛い経験も忘れて仲間に加えてほしいと思う。

しかし、そう思っても、仲間の内なる結束は強いけれども、外に対しては閉鎖的で時に敵対的なので、仲間になることが難しいことがある。

たとえ一時的に所属することができても、いつまでもよそ者のままでしかいられないかもしれない。

仲間として認められても、いつ仲間から外されるかわからない。

高校で教えていた時、自分たちのグループに属しているメンバーの一人をグループから外したいのだがどうしたらいいかという相談を受けたことがあった。

無論、私はそんな問いには答えられないといったのだが、その生徒が何かをしたからグループから外そうということになったのではなく、ただ、あの子は気に入らない、だから外そうという話になったのだろう。

そのグループから外された理由がはっきりしているのであれば、グループに留まるためには何をしてはいけないかがはっきりとわかるが、理由がわからなければ、そのグループに留まりたい人はとにかく嫌われるようなことはいったりしないでおこうと思い、他の人が自分のことをどう思っているかを常に気にかけるようになる。

同調圧力に抗することが難しい時には、異論があっても黙って従ってしまう。

孤独になることを恐れるからだ。

また、少しでも離れていれば、仲間の輪から外れてしまうかもしれないと不安になる。

このように、孤独を恐れる人は、一人ではいたくないと思って仲間に加わったのに、いつまでもよそ者のままであったり、仲間になっても疑心暗鬼になったりすれば、疎外感を持ち続けることになるだろうし、実際、仲間から排斥されたらいよいよ孤独感は増す。

このようにして人とつながろうとする人は他者に依存して生きている。

他者にいわば生殺与奪の権を握られているのである。

厳として立つ岬のように

マルクス・アウレリウス(※1)が次のようにいっている。

「波が打ち寄せる岬のようであれ。岬は厳として立ち、水の泡立ちはその周りで眠る」(『自省録』)

他の人が自分にしたことやいったことは、岬に打ち寄せる波の飛沫のようなものである。

厳として立っていれば、波の飛沫に煩わされることなく、それらは静まり眠る。

どうすれば岬のようになれるだろうか。

まず、他者からの評価は自分の価値とは関係がないことを知らなければならない。

だから、人からよく思われなくていい。

たとえ仲間から外されることになったとしても、その仲間に属する条件を欠いていたというだけのことであり、そんなことがあっても自分の価値はいささかも減じることはない。

次に、自分の置かれている状況で何をすることが必要かを正しく判断できることである。

その判断をするためには、知性が必要である。

正しく判断できるためには、孤独である覚悟も必要である。

三木清(※2)は次のようにいっている。

「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生じる」(『人生論ノート』)

人からよく思われたい人、孤立することを恐れる人はいうべきことをいわず、するべきことをしない。

そこで、職場の不正を告発しないかもしれないし、不正でなくても上司や同僚などが主張することがおかしいと思っても、あえて異論を唱えようとしないかもしれない。

そうなると、悪が蔓延ることになる。

他者からどう思われるかを恐れず、きちんというべきことをいえば、孤独になるかもしれない。

しかし、この孤独は一人でいれば寂しいというような感覚的なものではなく、何をすることが必要かを判断して行動でき、たとえそうすることで一人になることになってもそれを意識的に受け入れるということである。

その意味での孤独は知性的なものである。

この知性としての孤独を受け入れることができる人は、他者に依存することはなく自立している。

※1 2世紀後半のローマ皇帝。ストア派の哲学者でもあった。

※2 哲学者(1897~1945年)。『人生論ノート』は発表から80年を超えて読み継がれている。

「間」にあるものとしての孤独

三木は、「孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである」(前掲書)といっている。

孤独は一人の人間にあるのではなく、誰かとの「間」にあるのである。

問題は、その「誰か」をどういう人と見るかである。

依存的な人であれば、誰かと共にいる時には孤独ではないだろうが、離れるとたちまち寂しくなる。

孤独は、「大勢の人間の『間』にある」(前掲書)のでもない。

大勢の人間の「間」で孤独を感じる人は、大勢の中の一人になると誰からも注目してもらえないからである。

そのような人も他者に依存している。

知性としての孤独は自立した人の「間」にあるのである。

「孤独は最も深い愛に根差している。そこに孤独の実在性がある」(前掲書)

孤独は空間のように「間」にあるが、距離を縮め近づけば解消するというようなものではない。

それでも孤独を超えることはできる。

それは「愛」によるのだと三木は考える。

孤独の根底には深い愛がある。

これは他者に依存して生きている人の考える愛ではない。

自立した人同士の連帯である。

その連帯する相手は今は目の前にいないかもしれない。

しかし、連帯する人がいることを知っているので、孤独を超えることができる。

なぜ連帯する人がいることを知っているのか。

自分も誰かが正しいことをいったりしたりすることで孤立しているのを知った時に黙ってはいないからである。

自分がそうであれば連帯する仲間がいるに違いない。

深い愛の根底には他者への信頼がある。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

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『老後に備えない生き方』

(岸見一郎/KADOKAWA

2018年から2020年3月号までの連載が一冊になりました。読者の皆さんから寄せられた質問を手掛かりに、ギリシア哲学の専門家である岸見先生がアドラー心理学も駆使しながら、より良く生きるための考え方を考察します。

この記事は『毎日が発見』2021年11月号に掲載の情報です。

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