コロナ禍における"つながりの格差"「孤立しても孤独ではない」/岸見一郎「生活の哲学」

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「孤立しても孤独ではない」です。

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孤独な死

三木清(※)が孤独について、次のようにいっている。

「孤独が恐しいのは、孤独そのもののためでなく、むしろ孤独の条件によってである。恰も、死が恐しいのは、死そのもののためでなく、むしろ死の条件によってであるのと同じである」(『人生論ノート』)

死それ自体がどういうものかは誰にもわからないが、一人で死ぬことになるかもしれない――これが「死の条件」であり「孤独」の条件である――と思うと、死が恐ろしいものに思える。

自分は健康で病気とは無縁だと思っていた人でも、誰もがいつ何時感染するかわからないという意味で可能的な病者である今は、多少なりとも死を思わないわけにはいかない。

しかも、新型コロナウイルスに感染した人が、治療も受けられず一人でなくなったという話を聞くと、孤独死が現実味を帯びてくる。

家族に看取られようが看取られまいが人は一人で死んでいくしかないが、息も絶え絶えになっても誰にも助けてもらえず死ぬことになるのではないかと思うと怖くなる。

※ 哲学者(1897~1945年)。『人生論ノート』は発表から80年を超えて読み継がれている。

人と会わなくてよくなった

病気や死と結びつけなくても、孤独について従前とは違ったことに目を向けなければならなくなった。

孤独が自分で選び取るものではなくなったように見えるからである。

他者と交わらず孤独に生きることを自分で選べるのと、コロナ禍で人と自由に会えなくなり、そのために孤独になるのとでは大きな違いがある。

家族とすら離れて暮らしていれば容易に会うことはできない。

友人とも自由に会えない。

そうなると、三木の表現を借りるならば、孤独の感じが迫ってくる。

しかし、このような自分で選んだのではなく強いられた孤独であっても、肯定的に見られないわけではない。

人と会えばいやなことをいわれて傷つくことがある。

傷つくことはなくても、何らかの摩擦が起きることもある。

そこで、そのような目に遭わないために、人と関わることを避けようとする人がいる。

たとえそうすることで孤独になったとしても、会えば不愉快な思いをすることが予想されるのであれば、会わないことは精神的な健康を考えれば賢明な選択といえる。

問題は、人と会わないでおこうと思ったら会わない理由がいるということである。

それを相手に伝えることが相手との関係をいよいよ悪くすることになりかねない。

しかし、今は感染予防のために不要不急の外出を控えているので会えないというのは、誰にも当てはまることなので、それを理由に人に会わないといっても大きな摩擦は起こらないだろう。

自分も選ばれない人になる

このように、自分が会う人を選ぶのであれば、自分で選んだことなのでそのために孤独になってもやむをえないと思えるが、自分が人に会わないと決めるということは、他の人も自分を会うべき人、会いたい人として選ばないことがあるということでもある。

もちろん、あなたとはこういう理由で会えないとか、どうしても会いたい人ではないというようなことを面と向かっていう人はいないだろうが、いつの間にか人と会うことが少なくなったのに気づいた時、自分は選ばれなかったのだと思って自信をなくしたり、さらには、自分を選ばない他者、さらには社会を恨む人もいる。

こうして、以前は自分が孤独になるとは思ってもいなかった人も、自分は他者から選ばれないかもしれないと思えば、孤独を恐れるようになるだろう。

もちろん、人と自由に会えなくなったからといって、ただちに孤独になるわけではない。

人と会えなくなることは孤独の条件ではあっても、人に会えなくなったからといって、必ず孤独になるわけではない。

三木は孤独の条件である「独居」について、次のようにいっている。

「孤独というのは独居のことではない。独居は孤独の一つの条件に過ぎず、しかもその外的な条件である。むしろひとは孤独を逃れるために独居しさえするのである」(『人生論ノート』)

「独居」は、「一人暮らし」という文字通りの意味だけでなく、他者との関わりを避け「孤立」することも含めてもいいだろう。

独居は孤独の「一つの条件」でしかないので、独居しているからといって必ず孤独であるわけではない。

三木が「むしろひとは孤独を逃れるために独居しさえするのである」というのは、先にも見たように、人と関わって傷つくくらいなら誰とも関わらないでおこうと思う人がいるということである。

孤独を超える

コロナ禍においては「つながりの格差」が生まれると考える人がいる。

自由に人と会えない今も、人に選ばれる「資源」を持っている人とそうでない人との格差である。

資源を持っていない人は社会から孤立するというのである。

問題は何をもって選ばれるかという基準である。

人と会う、会わないを社会的地位や年収、また外見のような基準で選ぶ人がいれば、そのような人とは付き合わなければいいのである。

外的な条件を基準に人を選ぶような人は、自分にとって付き合うことが有利であるかどうかを考えるが、その基準に適う条件がなくなれば去っていくに違いない。

三木は次のようにいう。

「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである」(前掲書)

孤独は大勢の人の間でなくても、誰かと自分との「間」にある。

人は一人では孤独を感じることはないのである。

他者に依存しない自立した人であれば、外的な条件で選ぶような人に選ばれなくても孤独を感じないだろう。

そのような人は自分を無条件に受け入れてくれる人がいることを知っているからである。

自分を無条件に受け入れる人がいることを知るのは難しいことではない。

自立した人は、もしも救いを求める人がいれば、それが誰であれ事情が許す限り力になるはずだからである。

そのような無条件の信頼に根ざした対人関係こそが本来のあり方なのである。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

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『老後に備えない生き方』

(岸見一郎/KADOKAWA

2018年から2020年3月号までの連載が一冊になりました。読者の皆さんから寄せられた質問を手掛かりに、ギリシア哲学の専門家である岸見先生がアドラー心理学も駆使しながら、より良く生きるための考え方を考察します。

この記事は『毎日が発見』2021年10月号に掲載の情報です。

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