困っている人がいれば、それが誰かは関係ない「胸が締め付けられる思い」/岸見一郎「生活の哲学」

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「胸が締め付けられる思い」です。

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生き抜くために必要な協力

新型コロナウイルスの感染は一向に収束の気配はなく、日々多くの人が亡くなっていることを思うと心が痛む。

今日は何人亡くなったかをニュースで確かめることが習慣のようになっていて、日々つらい思いをする人はいるだろうが、その一方で一人の死がどれだけ重いものであるか、残された人にとって生涯強い後悔の念と共に思い出されるというようなことは思いも寄らない人もいるだろう。

平時であれば実害がなければどんな考え方をしていてもいいと思うが、危機の時代を生き抜くためには、皆が協力する必要がある。

ソーシャルディスタンスは一人だけでは実践できないし、閉ざされた空間で一人でもマスクを着用しない人がいれば、他の人の努力が無になることもあるからである。

考えなければならないことは二つある。

まず、問題が起きた時にそれにどう向き合うかということである。

先に見たように、大きな問題が起きていても、自分には関係がないと思い傍観する人がいる。

次に、協力が強制されると、反発する人や形だけ従う人が出てくるので、どうしたら皆が協力できるようになるのか考えなければならない。

無関心な人

アドラー(※1)が次のような事例をあげている。

ある若い男性が何人かの仲間と一緒に海に出かけた時、彼らのうちの一人が岸壁の縁から身を乗り出していてバランスを失い、海の中に落ちてしまった。

その若者は身を乗り出して、仲間が沈んでいくのを珍しそうにじっと見ていた。

彼はその時好奇心以外の何ものもなかったことに後になって思い当たった。

このような状況で、友人が海の中に沈んでいくのをただ眺めていられるのは尋常ではない。

好奇心はあっても、友人の運命にはまったく関心がない。

たとえ溺れたとしても心を痛めたりはしなかっただろう。

このような人にとっては、感染者が増えても自分は決して感染しないと思っていて、他人事でしかない。

※1 アルフレッド・アドラー(1870~1937年)オーストリアの精神科医、心理学者。

裁判官になる人

アドラーは次のような他者の言動に関心はあっても、自分では何もしようとしない人の話を書いている(『性格の心理学』)。

ある老婦人が市街電車に乗る時に、つるりと足を滑らせ、雪の中に落ちた。

彼女は立ち上がることができなかった。

多くの人が忙しそうに通り過ぎていったが、誰も助けようとはしなかった。

ついに、ある人が彼女のところへ行って助け上げた。

この瞬間、どこかに隠れていた人が飛び出してきて、彼女を助けた人に次のようにいった。

「とうとう、立派な人が現れました。五分間、私は誰が助けるか見ていたのです。あなたが最初の人です」

老婦人が雪の中に落ちたのに無事だったのは幸いだったが、隠れて見張っていた人は誰かが助けにくるのを待っていてはいけなかったのである。

このように人が善行をするのを見張るような人は、アドラーの言葉を使うと他者の「裁判官」になる。

「他者の裁判官を買って出て、賞と罰を分け与えるが、自分では指一本触れたりはしない」(前掲書)

「罰」を分ち与えるとアドラーがいっていることにも注目したい。

マスクをしない人に大きな声で注意をする人がいる。

感染しないようにマスクをするところまでは問題はなくても、アドラーの言葉を引くと「大抵、このような個人的な防衛が通常他の人を害することと結びついている」(前掲書)。

「自分では指一本触れたりはしない」裁判官というのは為政者である。

為政者はマスクをしない人を攻撃したり、営業時間を守らない店に電話をかけたりするような過剰反応をする人を利用する。

そうすれば本来自分たちに向けられる感染を抑えられないことへの批判の矛先を逸らすことができるのである。

他者への関心

ある律法学者が「何をすれば永遠の生命を得ることができるか」とイエスにたずねた(『ルカによる福音書』)。

その問いに対して、イエスは律法には何と書いてあるかたずねた。

律法学者は、主なる神を全身全霊で愛し、隣人を自分のように愛することと答えた。

イエスはそれが正しい答えであり、それを実行しなさいといったが、「私の隣人とは誰か」とたずねる律法学者に、イエスは直接には答えず、次のようなサマリア人の喩えを語った。

あるユダヤ人が強盗に襲われ倒れていた。

そこを通りかかった祭司やレビ人(下級祭司)は見て見ぬふりをして通り過ぎた。

ところが、あるサマリア人だけは怪我人を見ると気の毒に思って、近づいて傷に油と葡萄酒を注ぎ包帯をし、自分のロバに乗せて宿屋に連れて行って介抱した。

その上、翌日宿代まで負担した。

サマリア人にとって、自分たちを差別冷遇するユダヤ人は本来「敵」だったはずだが、このサマリア人にとっては傷ついたユダヤ人は「隣人」だったのである。

イエスはいった。

「行って、あなたも同じようにしなさい」

祭司やレビ人らは怪我人を見た時、血に穢されまいと道の反対側によけて通った。

律法学者は隣人とは誰かについて律法に書いてあることを知っていた。

律法学者は、聖書に書いてあるから隣人を愛さなければならないと考えていたかもしれない。

しかし、サマリア人は義務感からユダヤ人を助けたのではない。

傷ついているのが誰かは関係なく助けたのである。

「気の毒に思って」と私は訳したが、八木誠一は「胸が締め付けられる思いがして」と訳している。

サマリア人が胸が締め付けられる思いがして傷ついたユダヤ人を助けたのは「人間の本性から出た自然な行為」(八木誠一『イエスの宗教』)だったのである。

イエスは、隣人とは誰かを定義しないで喩えを示したところが重要である。

「イエスは、どのような条件のもとに誰に対して何を行わなければならないか、という倫理のマニュアルの形で神の意志を説くことをしなかった。彼の思想は法でも倫理でもなかったのである」(八木誠一『イエスと現代』)

困っている人がいれば、それが誰かは関係ない。

誰かから強いられたからでも義務感からでもなく、困っている人を見て「胸が締め付けられる思いがした」のであれば、助けたいと思う。

これがすべてである。

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岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

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『老後に備えない生き方』

(岸見一郎/KADOKAWA

2018年から2020年3月号までの連載が一冊になりました。読者の皆さんから寄せられた質問を手掛かりに、ギリシア哲学の専門家である岸見先生がアドラー心理学も駆使しながら、より良く生きるための考え方を考察します。

この記事は『毎日が発見』2021年7月号に掲載の情報です。

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