突然、開く深淵。不安は「自由の目まい」である/岸見一郎「生活の哲学」

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「不安は自由の目まい」です。

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突然開く深淵

先の人生が見えていると思っていた人も、災害に遭ったり、病気になったりというような経験をすると、三木清(※1)の言葉を引くならば、「我々がその上にしっかり立っていると思っていた地盤が突然裂け、深淵が開くのを感じる」(「シェストフ的不安について」『三木清全集』第十一巻所収)。

実際にこのような経験をしなくても、時折、首都直下型地震とか南海トラフ地震という言葉を目にしたり聞いたりすると、地震に備えておかなければならないと思う。

新型コロナウイルスの感染者数が連日報道されるので、自分も感染するかもしれないと思う。

こんな時、不安になる。

ただし、一瞬だけ。

先の人生が見えると思っている人も、本当はこれから先「深淵が開く」ようなことが決して起こらないと思っているわけではないだろう。

人生が地盤の上にしっかり立っているのではなく、「無」の上にあることを知っているのだが、それを認めたくないのである。

そこで、不安から目を背けるために、不安になってもすぐに忘れられるように、パスカルの言葉を使うと「慰戯(いぎ)」(divertissement)に夢中になる。

慰戯は生の現実から目を転じさせる(divertir)からである。

慰戯と訳したdivertissementは、「気晴らし」や「娯楽」とも訳せるが、三木は生活と娯楽という対立を払拭しなければならないといっている(『人生論ノート』)。

「生活を苦痛としてのみ感じる人間は生活の他のものとして娯楽を求める」(『人生論ノート』)しかし、三木は「生活を楽しむことを知らねばならぬ」(前掲書)といい、生活自体に楽しみを見出せたら、生活とは別の娯楽を求めなくていいと考える。

娯楽によって不安から目を背けなくても生活を楽しめるからである。

とはいえ、災害に遭うとか病気になるというようなことでなくても、何が起こるかがわからなければ不安にならないわけにいかない。

不安にどう向き合えば、生活を楽しむことができるだろうか。

※1:1897~1945 年。哲学者。著書に『人生論ノート』などがある。

不安を凝視する

キルケゴール(※2)は不安の対象は「無」であるという。

これは日常的な言葉でいえば「何となく不安だ」ということである。

恐怖はこれに対してある特定のものに関係する。

大きな犬が近づいてきた時、大地が揺れる時に起きる感情は、恐怖であって不安ではないということである。

これやあれの出来事によって不安になるのではなく、何となく不安になる。

何でもないこと(無)が人を不安にさせるのである。

キルケゴールは、「不安は自由の目まいなのである」(『不安の概念』村上恭一訳)といっている。

「仮にある人がふと自分の眼で大口をひらいた深淵をのぞき込んだとすると、その人は目まいを覚えるであろう」(前掲書)

目まいを覚えることの原因は一体どこにあるのか。

キルケゴールは、それは深淵にあるともいえるし、深淵をのぞいた当人の目にあるともいえるという。

「というのも、彼が深淵を凝視することさえしなかったら、目まいを起こすことはなかったろうからである」(前掲書)

キルケゴールは、「不安は、ひとつの反感的共感であり、またひとつの共感的反感である」といっている(前掲書)。

底しれぬ深淵をのぞき込めば、転落するのではないかという不安に駆られ目まいを覚える。

それなら、深淵に近づいてのぞき込まなければいいのに心惹かれる。

これが不安が反感的共感、共感的反感であるということの意味である。

キルケゴールは、子どもたちの中では不安は「冒険的なもの、途方もないもの、謎めいたものに対する憧れとして、かなり明確に示されている」といっている(前掲書)。

「この種の不安は、子供たちにとって本質的とも言えるものなので、子供たちはそうした不安なしではいられないほどである。たとえ、不安が子供たちを不安がらせるとしても、その不安はもちまえの甘い不安をつのらせる悩みによって子供心を捉えるのである」(前掲書)

探検に繰り出す子どもは不安だが胸は躍っている。

片想いの人にどう告白しようかと悩む子どもは「甘い不安」をつのらせる。

※2:1813~1855 年。デンマークの哲学者、思想家。

深淵に向かって跳べ

バンジージャンプをする人が不安になるのは、飛び降りるかどうかを決める自由があるからである。

そもそも深淵に臨んでジャンプしようなどと思わなければ不安に駆られることもない。

人生においても、深淵を前に足がすくんでしまって動けなくなるような時がある。

災害に遭ったり、病気になったりしてそれまで自分が立っていた大地が突如として裂け深淵が開くのとは別に、自分で敢えて深淵に立とうとすることがある。

多くの人が選ぶような一見安全な人生とは違う人生を生きる決心をすれば、たちまち深淵が開くことになる。

これからの人生でどんなことが自分を待ち構えているか見えなくなるからである。

一方で、成功を目指すような一般的な人生も実は少しも安全ではない。

先の人生が見えていると思い込んでいるだけで、災害に遭ったり病気になったりすればたちまちこれからどう生きればよいかわからなくなり途方に暮れることになる。

たとえそのようなことに遭遇しないで老年を迎えられたとしても、本当に大事なものを手に入れられず、人に合わせてばかりで自分自身の人生を生きてこなかったと思った時、絶望することになる。

そのような多くの人が生きるような、一見安全な人生を生きるのではなく、冒険してもいいはずである。

ここでいう冒険というのは、常識的な価値観から外れた、三木の言葉を使うならば、エクセントリックな生き方をすることである(「シェストフ的不安について」)。

そうすることで、深淵に立つことになるが、そこから目を背けず深淵に飛び込めばいい。

その時、不安にならないはずはないが、不安になるのは自由に生きている証である。

【まとめ読み】岸見一郎さん「生活の哲学」の記事リスト

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岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

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『老後に備えない生き方』

(岸見一郎/KADOKAWA

2018年から2020年3月号までの連載が一冊になりました。読者の皆さんから寄せられた質問を手掛かりに、ギリシア哲学の専門家である岸見先生がアドラー心理学も駆使しながら、より良く生きるための考え方を考察します。

この記事は『毎日が発見』2021年5月号に掲載の情報です。

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