哲学者の岸見一郎さんが定期誌『毎日が発見』でスタートした新連載「生活の哲学」。第1回のテーマは「ゆっくり生きる」。まさに、新型コロナウイルスで世界中が立ち止まっているような現在だからこそ、この記事もじっくりと読み、そして皆さんにも、考えてみていただきたいです。
ゆっくり生きる
講演でいろいろな街を訪れる機会がある。
大抵は講演が終わればすぐに帰るのだが、まれに時間にゆとりがあると努めて街を歩くようにしている。
島崎藤村が一九一三年にパリへ旅立った時のこと。
ポール・ロワイヤル通りに面した下宿で旅装を解いた藤村は、翌日故郷からの便りもあろうかと日本大使館を訪ねた。
今と違って神戸からマルセイユまで船で三十七日かかった。
大使館からの帰り、さんざん道に迷い、ようやく見つけた辻馬車で下宿まで帰った。
「私はすごすご自分の部屋へ入った。知らない町の方で私が踏んで来た石の歩道も、そこで見て来た日あたりも、私の眼に浸みていた。その日ほど私は言葉の不自由を感じたことは無かった。しかし辻馬車は辻自動車で乗り廻して見るにも勝って、都会としての巴里(パリ)の深さに初めて私が入って見たのもその日であった」(島崎藤村『エトランゼエ 仏蘭西旅行者の群』)。
歩くと初めて見えてくるものがあるのだ。
しかし、ただゆっくり移動すれば見えてくるのでもない。
「春の奈良へいって、馬酔木(あしび)の花ざかりを見ようとおもって、途中、木曾路をまわってきたら、おもいがけず吹雪に遭いました。......」(堀辰雄『大和路・信濃路』)
堀辰雄と妻が木曽福島の宿に泊まった翌朝は吹雪だった。
雪の中を衝いて宿を立った二人は汽車に乗った。
そのうち雪もあるかないかくらいにしか散らつかなくなった頃、隣の夫婦の低い話し声を耳に挿(はさ)んだ。
「いま、向うの山に白い花がさいていたぞ。なんの花けえ?」
「あれは辛夷(こぶし)の花だで」
堀は急いで振り返って、山の端に辛夷の白い花らしいものを見つけようとした。
筋向かいの席で本を読んでいる妻にも注意を窓の外の景色に向けさせようとした。
「むこうの山に辛夷の花がさいているとさ。ちょっと見たいものだね」
「あら、あれをごらんにならなかったの。あんなにいくつも咲いていたのに。......」
「嘘をいえ」
「わたしなんぞは、いくら本を読んでいたって、いま、どんな景色で、どんな花が咲いているかぐらいはちゃんと知っていてよ。ほら、あそこに」
妻が指差す山の方を見て、やっと何か白っぽいものを、ちらりと認めた気がしたが、堀は花を見つけることはできなかった。
汽車に乗っていたから辛夷を見つけられなかったのではない。
妻は辛夷の花を見ていたのだから。
たとえゆっくり歩いていても、関心がなければ、目にしていても何も見えないのだ。
私は十年以上も前に病気で倒れた。
退院後、リハビリのために歩き始めたが、最初の頃は何も見えなかった。
やがて、名前がわかるようになると、花や鳥が目に飛び込んできた。
須賀敦子(1929~98年。随筆家、イタリア文学者)も、フランスで学んでいた時、よくパリの街を歩いたと書いている(須賀敦子『ヴェネツィアの宿』)。
「自分にとってまるで異質なこの街の思想や歴史を、歩くことによって、じわじわとからだの中に浸みこませようとするみたいに、勉強のひまをみては、地図を片手にあちこちと歩いた」
須賀は、留学先のパリの寮で同室になったドイツ人のカティア・ミュラーのことを書いている。
カティアは、当時、須賀よりも十二、三歳年上で四十歳近くだった。
「しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい。いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうのでこわくなったのよ」
関川夏央(1949年~。小説家、ノンフィクション作家、評論家)は「これはまるで須賀敦子自身の口から発せられた言葉のように思えるのである」といっている。
須賀は、「友情を求めながら孤独を恐れない人だった。それ以上に『うっかり人生がすぎてしまう』ことを自らに許さない人」だった(関川夏央『豪雨の前兆』)。
カティアは、須賀が大学や図書館に出かけている間、ほとんどいつも部屋で机に向かい、「気の遠くなりそうにぶあつい」エディット・シュタインという哲学者の書いた本を首を突っ込むようにして読みふけっていた。
シュタインはフッサールの助手を務めるなど学究の分野でも頭角を表したが、三十歳の時カトリックの洗礼を受けて高校の教師になった。
ナチスのユダヤ人迫害が始まると同胞の救済を祈るために修道女として生きる決心をした。
ところが、迫害が修道院にも及びそうになったので、オランダの修道院に身を隠したが、ついに秘密警察に捕らえられ、アウシュビッツのガス室で死んだ。
「自分の人生についてゆっくり考えてみたいと思ったの」。
カティアはシュタインの哲学を知るためだけに著作を読んでいたのではなかった。
ゆっくり歩かなければ見えないものがあるように、ゆっくり考えなければ本当に大切なことを考えないままに人生は過ぎてしまう。
どこか目的地に到達するためではなく、その土地の「深さ」に入るために歩くことがあるように、人生の意味を考えるのは早く答えに到達するためではない。
同様に、生きることも、どこかに到達するためではない。
急がなくても、寄り道をすることも立ち止まることがあってもいいのだ。
関川は、須賀がある日語った言葉を伝えている(関川夏央『石ころだって役に立つ』)。
「私ね、やりたいことがいくつかあるの...でも、もうあんまり時間がないような気もするのよ」
自分に残された人生があまりないことは須賀は知っていたのだろうが、生き急いだのではない。
人生の意味をゆっくり考え生きたのだ。
須賀がパリに留学する直前に買ったサン= テグジュペリの『城砦』の表紙の裏に封筒が挿んであった。
そこに須賀は彼の言葉を書き付けていた(須賀敦子『遠い朝の本たち』)。
「大切なのは、どこかを指して行くことなので、到着することではないのだ、というのも、死、以外に到着というものはあり得ないのだから」
うっかり人生を費やすことなど決してなかった須賀は、珠玉の作品を残して六十九歳で突然一人足速に歩み去った。
ラテン語にこんな諺(ことわざ)がある。
Festina lente(ゆっくり急げ)