コロナ禍で思い出した、コミック『岳』の主人公/岸見一郎「生活の哲学」

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「どんな時も絶望しない」。新型コロナウイルスの影響を受け、私たちは自分の「生活」を、「生命」を、そして「人生」を、どのように考えるとよいのでしょう――。

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どんな時も絶望しない

ある日、散歩の途中に近所の植物園を訪ねた。

ところが、新型コロナウイルスの影響で中に入ることができなかった。

この植物園は自宅から徒歩で十分くらいのところにあるので、植物園に行くと決めて散歩に出かけることはあまりなかったが、いざ入園できないとなると、この季節に咲き誇っているはずの雪割草を無性に見たくなった。

三木清(哲学者・1897~1945年。『人生論ノート』は発表から80年を超えて読み継がれている)は、次のようにいっている。

「アウグスティヌスは、植物は人間から見られることを求めており、見られることがそれにとって救済であるといったが、表現することは物を救うことであり、物を救うことによって自己を救うことである」(『人生論ノート』)

はたして、アウグスティヌスがいっているように、植物が人間から見られることを求めているわけではないだろう。

花は人間が見ようが見まいが気温や日照時間が開花の条件に合えば咲く。

散らないでほしいと願っても、雨が降り風が吹くと散る。

不要不急の外出を控えるようにといわれても、生きる喜びの大半は生きることに直接関係しない。

人生は四季折々の花を愛でるという不要不急のことばかりだといっていい。

今年花見を諦めても桜は来年も必ず見られると政治家が話しているのを聞いた。

生活はまたいつか元に戻るかもしれないが、来年の春どころか、一週間後ですら何が起こるか予測できない今、はたして来年生きて桜を見られるのかはわからない。

やがて、感染拡大防止のために生活の糧を得るための仕事をすることまで制限されると、生活が困難になり、さらには生命まで危険に曝(さら)される。

英語のlife は「生活」「人生」「生命」という意味を含む。

今、世界の至るところで起こっている問題は、「生活」の変化が「生命」の問題になるということ。

そうなると、「人生」をも見直すことを余儀なくされる。

入院した経験のある人は、明日という日がくることも決して自明ではないこと、それまで漠然と人生設計をしていた人は、これからの人生が保証されてこそできたことに思い当たっただろう。

ウイルスが人間の都合を考えているはずはない。

愛する人を亡くしたという人がコロナウイルスが憎いと話しているのを聞いた。

感染さえしなかったら、と。

しかし、ウイルスは人間を悲しませるために感染するわけではない。

病気は古来、悪の隠喩であり、医療者のみならず社会全体が病気と「闘う」という軍事的隠喩が用いられてきた。

病気を憎むことや、「闘う」という言葉は、やがて病気のみならず、病気の人にもスティグマ(汚名)を着せることになる(Susan Sontag,Illness as Metaphor &AIDS and Its Metaphors、邦訳は『隠喩としての病い/エイズとその隠喩』スーザン・ソンタグ著、みすず書房)。

ウイルスだけでなく、ウイルスに感染した人もスティグマが着せられると、ウイルスに感染した人は憎しみの対象になり、感染したことで責められることになる。

治癒しても感染した人は、謝罪しなければならなくなる。

ウイルスに感染した人は重篤の肺炎になって死ぬかもしれないという不安だけでなく、社会的な制約を受けることになるかもしれないという不安も膨らむ。

これは絶対におかしい。

誰も好んで感染したはずはないのだから。

人は「ただ」病気になるのだ。

病気になることに、神に罰せられたのだとか、意志薄弱だったからとかというふうに、余計な意味を付与してはならない。

病気を心理学的に理解することも、病気の「現実性」を損なうことになるとソンタグは指摘する。

ペストが猖獗(しょうけつ)をきわめた十六世紀後半から十七世紀にかけてのイギリスでは、幸福な人間はペストにかからない、心が幸福な状態であれば病気は避けられると信じられていた(Sontag, op.cit.)。

今も同じようなことをいう人は多い。

しかし、不屈の胆力と精神力があっても感染を防ぐことはできないし、意志の力で病気を治せるものではない。

精神主義は病気の前では無力だ。

しかし、そうであっても、いつ何時感染するかもしれない状況の中で、また病気になった時にどう生きるかは決めることができる。

トゥキュディデス(古代アテナイの歴史家、紀元前460 年頃~紀元前395 年)が古代ギリシアのアテナイを襲った疫病について詳細に書いている(『歴史』)。

健康だった人も何の前触れもなく病気に倒れた。

アテナイの三分の一の人が亡くなった。

自分自身も罹患したトゥキュディデスはこういっている。

「もっとも恐ろしいのは病気に罹(かか)ったと知った時の落胆だ」

人々はこの病気についていろいろなことを知っているので、絶望し、病気に抵抗する気力を失ってしまうのである。

絶望しないで希望を持ちさえすれば感染しない、また、治癒するわけではない。

それでも、希望を失わないことが「生」(life)のあり方を変えるのは間違いない。

どうすれば絶望しないで生きられるだろう。

いつ感染するかわからない危機的状況においては、平時よりもいよいよ「今ここ」を生きなければならない。

未来のことばかり考えていると、不安に押し潰されてしまう。

万が一、感染したとしたら、なぜ感染したのか、なぜ自分が感染してしまったのかと過去を振り返ってみても詮のないことだ。

今日という日を今日という日のためだけに生きたい。

ここまで書いて、ボランティアで山岳救助にあたる青年を描く『岳』(石塚真一)というコミックのことを思い出した。

島崎三歩はこよなく山を愛し、頼まれた救助の依頼は決して断らない。

崖から転落したが助かった人たちは島崎に謝る。

しかし、彼は生きていることに「ありがとう」という。

亡くなった人には「よく頑張った」と声をかける。

どんな場合も責めはしない。

それどころか「また山においでよ」と声をかける。

今はウイルスに感染した人が肩身の狭い思いをしなければならないことがあるが、皆がこんなふうに思えるようになればいいのだが。

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岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

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『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』

(岸見 一郎、古賀 史健/ダイヤモンド社)

フロイト、ユングと並ぶ心理学三大巨匠の一人、アドラー。日本では無名に近い存在ですが、欧米での人気は抜群で、多くの自己啓発書の源流ともなっています。

アドラー心理学の第一人者である岸見一郎氏がライターの古賀史健氏とタッグを組み、哲学者と青年の対話篇形式で彼の思想を解き明かしていく、ベストセラー。

この記事は『毎日が発見』2020年6月号に掲載の情報です。

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