性別:女
年齢:37
プロフィール:今から12年前に母を胃がんで亡くしました。突然のことだったので、本人も家族も心の準備ができず、いまだに夢に見るくらい悲しい出来事でした。
※毎日が発見ネットに掲載された体験記を再構成してお届けします。この体験記が書かれたのはコロナ禍前です。
母は12年前、55歳の時胃がんで他界しました。
病気発覚からたった3週間でのことでしたので、本人も家族も青天の霹靂。
呆然とした状態で、母が息を引き取る瞬間を父(当時52歳)と病室のベッド横で見ていました。
最期のときは、看護師さんから意識を失った母に呼びかけるようにと言われ、私(当時25歳)は「おかあさん! おかあさん!」と絶叫。
涙は流れ続けボロボロだったのですが、母が呼吸を止め、医師が時計を見て時間を述べて「ご臨終です」と言うと、それまで私の叫びで満たされていた病室は一気に静まり返りました。
すぐに看護師さんたちがエンゼルケア(死後処置)を始めて、それが終わると「遺体を霊安室に運ぶけれど、本日中に引き取って欲しい」と言われました。
季節は真夏です。
自宅に連れ帰ったらすぐに腐敗が進んでしまいます。
涙は乾かないのですが、実感がわかなかったこともあり、どこか冷静だった私は、淡々と一般的にみなさんどうするのかと尋ねました。
すると、葬儀屋さんに引き取りに来てもらう人がほとんどとのことでした。
母は生前、お葬式で子どもに迷惑をかけたくないからと、葬儀会社にお葬式費用の積立をしていました。
その葬儀会社の会員カードがお財布に入っていると聞いていたので、さっそく母の財布を開けてカードを探すとすぐに見つかりました。
そこに書いてある電話番号に電話すると、すぐに「分かりました。2時間後に伺います」と言われました。
2時間後、お棺ものせられる黒塗りの立派な車が到着しました。
そこに母が移動され、父はその車の助手席に、私はタクシーにのって追いかけました。
このまま葬儀会社に行ってお葬式の打ち合わせをするというのです。
この時点で母の死後から3時間もたっていません。
初めて葬儀をする側になって、葬儀準備はこんなにスピーディーに進んでいくものなのか、とびっくりしました。
葬儀会社につくと、母は遺体安置用冷蔵庫に入れられ、私と父は別室で分厚いカタログを見せられました。
葬儀の形式は、使う花は、オプションは、と次々に決めなければならないのです。
そして、その金額の高いこと...。
お棺、花代他、いろいろと10万、20万といった金額が並んでいます。
母の積立にどれくらいの金額があるのか尋ねると、100万円ほどと言われました。
そして「それでは足りないと思います」と言われる始末。
母は葬儀代すべてを賄えると思っていたようでしたが、そうではありませんでした。
おっちょこちょいの母らしい...と少し微笑ましく思いました。
ついさっきまで生きていた母が死に、父と私が「えーこれは高いよー」と時には笑いながら葬儀の段取りを決める。
なんだか現実ではないような気がしました。
父と私は笑いながらも、麻痺していました。
わざと笑って、自分たちは正常なんだよ、とアピールしているような気もしていました。
判断力があったのかなかったのか、分かりません。
ただ、もう泥のように疲れ切っていましたし、早く布団に倒れ込みたかったのが、その時の気持ちです。
打ち合わせはサクサクと進んだのですが、決めることが多すぎるため、3時間程かかりました。
もう吟味して選ぶのではなく、もうなんでもいいから適当なものにしてくれ、そんな気分でした。
そして、なんとか葬儀の段取りが決まった後、葬儀屋さんは別のパンフレットを出してきました。
仏壇のものでした。
どうやら仏壇までその日中に決めさせたいようです。
流石にそこまでは必要ないだろうと思い、「頭が回らなくて判断が付かないので結構です」と伝えて、打ち合わせはやっと終わりました。
結局、葬儀代は300万円程になりました。
正しい判断ができていたのか分かりませんが、なるべくリーズナブルなものを選んでもそんな額になってしまいました。
遺体安置用冷蔵庫の扉をちらっと見て、母に「3日後のお通夜の時に来るからね」と心の中で話しかけました。
母が亡くなったのはお昼どき。
葬儀会社を出る頃には、午後7時を回っていました。
7時間前には生きていた、もう死んでから7時間たった、どう捉えていいかわからない時間。
ただ、本当に疲れきりました。
私と父は会話もなくタクシーにのって帰りました。
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